アルゼンチンつれづれ(194) 1995年新年号
ボストン大学
子供達がそれぞれ一人の生活をしていることが身にしみて思われる季節がやってきた。今年のサンクスギビングデイのディナーに家族揃って過ごすことはどうやら無理らしい。「ならば私が出かけなければ…」と久し振りに使命を感じた。
日本からまずボストンヘ行き、由野と二、三日を過し、帰りがけにロサンゼルスの玉由の所へ寄って…とスケジュールをたてた。
由野は、私から独立してから五年がたち、本人の意志で五回引越しをした。
まずスイスヘ一人で出掛けてゆき、レマン湖畔の高校の寮に入って一年間は過した。次の年は大学生になり、やはりレマン湖が窓から見えているワンルームのアパートに住んでいた。そこへは、その当時サンタモニカに住んでいた玉由と私と出かけてゆき、上手に可愛らしく住んでいるのに安心したのは束の間、大学の二年生はボストンの大学に編入し、まず大学の寮で一年間を過して、様子がわかるとボストンの町で暮し始め、大学中はそこに落付くのかと思っていたら、「ボストンヘ来てから三度目の引越しを完了」と連絡してきた。
「今度の所はお母さん来ても大丈夫な広さがあるから来てね」「お母さんが一ヶ所にじっとしていられないように育てちゃったみたいだね」などと言っていた。五年間に五回の引越しを、私は一度も手伝ったりしなかった。
「危険な所はだめ」「あまりみすぼらしい所はいけません」などと国境を越えての遠方より電話で言っているばかり。
「ボストンまでターキーを焼きに行こうかな!」と一言言ったら、今まで孤軍奮闘の由野の緊張がはじけてしまった。「このところのボストンの気温はだいたい零度くらいで風が強いの」とか、「今度の家の床が板のままだから、大きな動物のスリッパを買ってきてね」「お母さんが羽毛のコートを着てきて、ロサンゼルスに行く時には由野に置いていってよ、何しろここはお母さんの常識の温度じゃないんだから」「ボストンの美術館は有名らしいよ、まだ行ってないから一緒にゆこうね」「家の近くに美味しいパン屋さんがあるの、熱いの食べられるよ」…などなど私がボストンに居るということに夢中になってしまった。
私の方も、由野の所へ持ってゆく物、玉由の所用、とスーツケースはたちまちぎっしり。着いたらすぐ食べられる和菓子など生物も買いととのえ、「さあ出発、今から成田へ行くからね」と由野に電話を終え、玄関まで荷物を運んでいたら電話が掛かってきた。「今、香港にいるけど、予定を変更して日本へ行くことにした。目的は、○社と△社、コンタクトを取って下さい」とブラジルの仕事関係の人から。
「エー」とは思いつつ「どうぞいらして下さい」と言っていた。そして、またボストンに電話「由野、行かれなくなっちゃったよ。急にブラジルのお客さんが来られることになってしまって」「やっぱり。ちゃんとボストン空港でお母さんを掴まえるまでは信じられなかったんだ」「ごめんね。でも、そのうちに絶対行くから」
そして、ブラジルの人が香港からやって来られた。ずっと一緒にいての仕事の間にすぐおとずれる食事の時間は「すしが好きだ」とのことで「すし」ばかりとなった。
「これがすしか!」と驚かれ、「ブラジルのすしとは違う食べ物なのですね」と。丁度日本の美味しい季節の味を充分に味わっていただき、日本のことが心に残っていただけたらうれしい。
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