アルゼンチンつれづれ(195) 1995年02月号

津之地先生

 ずっと昔、私の物心ついた頃から、奥の部屋に幾人かの人達が集まってこられる日があり、「編集会」という言葉はごく自然に家族の中で言われていた。「子供達は、うろちょろしてはいけない」ということで、襖が閉まっている編集会の部屋には近づくことはなかったけれど、見上げるような男の人と廊下で出会って、ペコリと頭を下げたりなんてことも常のことだった。
 「編集会」という日には、朝からお手伝いが干瓢を煮る仕度をしたり、沢山の油揚げを開き、一度、二度湯を通して油抜きをし、いなりずしを作る準備がされていた。医院で患者さんの受付けや薬のことなど忙しい母が、着物を着ているのにも拘らず、長い廊下をパタパタと走って台所へ行き、お手伝いに指図をしては、またパタパタと医院の方へ行き……以前は医家には土曜も日曜もなかった中での編集会。
 その頃から津之地先生は三河アララギの指導者だった。
 私が中学生の時に、津之地先生のお嬢さんと私の一つ上の兄と同じクラスとか何とか話しておられて、とても親しみを覚えたことを思い出すけれど、事実に分け入るようなことはなく、少しずつきこえたり見えたりしたことは、高く見上げていた父母の次元のことだった。
 そして、始めてしまった長い外国生活の唯一つの日本とのつながりは、月々届く三河アララギを手紙のように読み、編集会の先生方や父母の一カ月間の消息を知るのでした。
 アルゼンチンでちょっぴり身体をこわして寝ている時があり、しょうことないまま思いついたことを書いていたら、何だか短歌みたいな形になったから、父母への手紙に書き送ってみたら、そのただの書き付けみたいなものが三河アララギに載ってしまって、それからは、後を続けることに夢中になって現在に至る。
 短歌を続けたい気持に、勉強というほどでなくても、日本古来の物も読まなければ……と探した本に、偶然津之地先生の論文を見つけ、驚き尊敬したこともあった。三河アララギ誌上の津之地先生の万葉詞林適遥の解説に、万葉集への興味を引き起こされ、私に残ってゆく。このままが永久に続くのだと思っていた。
 母が亡くなってしまい、自分の行く末を思わざるを得なくなり、考えついたことは「もう日本に住もう」ということだった。そして、やっと奥の部屋の編集会ということへの襖を開けた。
 津之地先生の隣の席が畏れ多くも空いていて、私はその時、床の間とか偉い人とか、そういう発想が蘇っていない時期だったから、空いていた所に平気で坐った。津之地先生の一番近くに居られることとなり、「先生、教えてください」「間違っていますか」「どのように表現すればよいのですか」……とにかく辞書をひくより楽で、プラスαが大きい津之地先生の隣がすっかり気に入り、さあこれから、先生に従って万葉の世界が広がる。万葉の里歩きにも是非従いたい。講演にも。もっと欲張って、先生と一緒にお酒をいただきたい。ほろ酔ったらどんなお話が伺えるんでしょうか……期待ばかり広がっていった。
 そして急に、全部の私の心を置き去りにして、津之地先生はすうっと亡くなってしまわれた。「昔の忘年編集会には、編集室で水炊きをしてお酒を飲みましたよ」との先生の思い出話に、「今年は私が実行します。その時はゆっくり飲んで、沢山お話ししてくださいね」って約束をしていたのに。

 
 

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