アルゼンチンつれづれ(196) 1995年03月号
大地震
「お母さん! 何度も何度も掛けているのに全然繋がらなくて、もう心配したよ。アメリカで、日本に大地震があったって大きく報道しているから」。ボストンの由野からの電話。
真夜中の電話のベル。「いくら電話しても駄目なんだよ。お母さん、どうなっちゃったのかと掛け続けたら、日本の夜中になっちゃったけど、しょうがないよね。大丈夫なんだ! よかった。それじゃ、今から授業に出てくるからね。バイバイ」とは玉由。
ブラジルからも、アルゼンチンからも「とにかく電話が掛からなかったけれど、やっと繋がった」との地震見舞をいただいていた。 そして、反対に、私が子供達や仕事のことで外国に連絡しようとすると、日本からも電話が掛からない。掛かりにくい、ということを知り、これは日本の国に大変なことが起こってしまっていることを実感するのだった。 明けても暮れても、恐ろしくも怖く、苦しく悲しく、痛い寒いニュースに接し、心は塞ぎ、呼吸困難のような……胃は痛く……。
私の家は、ダンプカーなどの大きな車が前の道を通ると、ユサユサ揺れるビルなので、揺れることには慣れているつもりになっていたのに、今度の地震があってからは、寝ている時にダンプカーが通れば、うなされ、飛び起き……。起きている時だったら、災害に遭った人達に思いは及び……。
外国で子供を育ててきて、いつも、「いつ何が起るかもしれない。子供達を守ってあげなくては!」と気を張って生きてきた。考えられる全てを尽して、安全を心していたと思う。幸いなことに、恐ろしい目に遭うこともなく来られたのだけれど……。
今、急に始めてしまった私一人の生活は、うかうか過ごしていて、何一つ備えがないことに気づいた。懐中電燈を買いに出掛けた。あちこち売り切れで、仕方がないからコンビニで、明りが点けばよいというほどのものでも買ってきた。今までコンセントから聞いていたラジオの電池の大きさを調べて調達した。そこまではしてみたけれど、あとはもう何をしたらよいのか分からなくなった。
ベッドに入ってつらつら見廻すと、ニュースで見た、くしゃくしゃになって落ちていたのと同じ電燈は、丁度私の顔の上にある。ヨイショとベッドの位置をずらし、今度はタンスが気になるけど、このタンスが倒れる距離から逃れられるほど我が家は広くはない。あれからの日々、自分のタンスでペチャンコになってしまうことばかり思われて寝ている。 南米に住んでいたから、布切れが大好きだから、インディオの糸作りや織、染を彼等の生活に入り込んで識りたいと、どんなにか思ったけれど、断念した日のことを思い出す。ちょっと消毒の匂いがする水をふんだんに使って、黴菌も汚れも流し去ってしまえる生活から離れられない自分の弱さ。記憶を遡ると、母は、私達子供に、小さな缶に入れたアルコール綿を持たせていた。遠足など、手が洗えない所では、缶を開けてアルコール綿で手をふくと、綿は真っ黒くなり、「こんなに汚い」ということを知り。もう一度新しい綿でふいて、そして、おむすびを食べた。こんなべースに育ってしまったから、被災地で、水がない、電気がない、ガスがない……何もない……。そこに我が身を置くのは気が狂ってしまいそう。
水を使う度に水に感謝をし、お湯が沸くことに感謝をし……自分の一日中の行動を意識しているこのごろ。
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