アルゼンチンつれづれ(212) 1996年07月号
江美ちゃん
「母の日」、当然のごとく玉由と由野からの百合の花束はアメリカから届いた。そしてもう一つ、大きな赤いカーネーションの束。江美ちゃんからだった。「お母さんへ」と書いてあった。江美ちゃんが働いたお金で、こんな大きいのを贈ってくれたんだ。「江美ちゃん、よく覚えていてくれて…」
「江美ちゃん」とは、玉由が日本でスケートをしていた時の同じクラブの仲良し。その頃私達は、スケートアリーナの横に住んでいたから、いつも大勢の子供達が我が家へ出入りしていたけれど、江美ちゃんは母親をなくし、仕事をもつ祖母と父親との家族だったから、江美ちゃんの一人の時間は、全部“ウチの子”と同じあつかいのウチの子になっていた。その時々の子供の人数分に切り分けたケーキなど、食事もそうだった…江美ちゃんは一番大きいのを取るのが上手で、全員が黙認していた。
パンやピッザを一緒に作ったり、アルゼンチン風の料理やスペイン風だったり…。アルゼンチン風の変わった味のリクエストがよくあった。片付けは、もちろん子供達も手伝った。…こんな時があって、私達は、アメリカヘ引越してしまい、「江美ちゃんどうしてるかなー」とは、常に思っていたけれど、何となくウヤムヤになっていた。
そして、二年前から、江美ちゃんがカーネーションというきっかけを作ってくれて、今、玉由と由野は日本に居ないけれど、江美ちゃんが居ることになり、一緒にお酒を飲んだり美味しい物探しを…洋服探しも…と、江美ちゃんの仕事が終る時間を待つ日も多くなった。
神様に、米と塩と酒とをお供えするように、お酒って、とても大切な存在だと思うから、私の二人の子供達には、赤ちゃんの時から「将来お酒が楽しくいただけるように」という教育をした。今は世界のあちらこちらで子供達と出逢うと、すぐ楽しくおいしい酒盛りになる。
江美ちゃんは、私のお酒の教育を受けなかったから、ちょっと飲んですぐ酔ってしまう。でも飲んでいるような顔をして、私に付き合ってくれている。
そして、私が、私の三人の子供達に言い続けていることは、「自分自身のために生きる人になりなさい。人をサポートして、自分を発揮出来ないような生活をしてはいけない。ということは、自分で自分の生活を自分の力で作り出し、趣味の部分でもって、結婚とか、人をサポートするぶんには、いっこうにかまわないけれど…」
日本の大かたの男の人は、男というだけで妻とか奥さんとか便利な存在があり、ほとんど一人の女の一生を使い尽くすことを当然とし、決して、女の人を一人の人間として対等に思おうとはしない。可愛いとか助かるとか…その次元までで。
一人で十分に自分を発揮出来る才能も実力も持ちあわせている私の子供達が、一人の男のためのサポート係になることをゆるしたくはない。
私の亡くなった母米子は、幼少の頃、少年少女雑誌の表紙の男の子が大きく、女の子が小さく描かれているのに抗議の手紙を出したそうだ。そして、表紙の男女比が対等になった。そんな激しい聡明さを持った人だったけれど、旧い大家族の家と一人の人のサポート係をしていて一生が終った。もし、彼女が自分のことに専念できたら、日本を左右する歌人になっていたと思う。まちがいなく。「せっかく生れてきた自分のことを大事にして生きるのですよ!」と私の女の子達に言い続ける。
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