アルゼンチンつれづれ(211) 1996年06月号
身延山
“ただ行ってみた”。それほどのことなのだけれど、日蓮聖人の生誕地と、原点である清澄寺と、実際にその場に立つと、あれこれ思う。
次は鎌倉とか、比叡山、佐渡、東京池上本門寺、洗足池…。
本門寺については、まだ子供達が小さくて、アルゼンチンの学校での三ヵ月間の夏休みを日本で過ごすことにしていたその頃は、日本を教えることに情熱を注いでいて、日本のことの一つに、池上本門寺境内の体操教室に通わせていた。「貴女達のご先祖様よ」と毎日おまいりをさせた。「立派なんだね」と子供達は長い石段を苦にもせずに駆け登って親しんだ。
洗足池は、昔は千束池といい、今現在私が住んでいる地名と同じだったのだが、日蓮聖人が本門寺に赴く途中に、足を洗われたことから“洗足池”と名を変えたのだそうだ。
私が「もう日本に住もう」と思いたった時、広い東京のどこに居を定めたものか…。“洗足池近く”を探した。そして、洗足池一周の散歩に丁度良い所に今は住んでいる。
身延山。地図を広げると、私のいつもの通り道、新幹線の新富士駅に降りたつと行けるらしい。
三河アララギ歌会に出席した機会を利用して、たちまち身延線に乗っていた。単線の各駅停車の座席には、心地良い陽があたりつつ、思ったより大きな富士川近く沿ってゆく。家々の庭の木と花と、畑の作物と野草と、駅のホーム際にうこん桜が満開だったり。右の山は富士山系。山吹の季節、シャガの花も一面。左側の山は赤石山脈、南アルプス公園。 最も近くの身延山系の山の木々の一本一本に新しい春色。何と沢山の初々しい緑があること。世界のいろいろな所の美しさを見てきたけれど、身延線の窓からの風景の美しさには魂消る。
身延山駅。コインロッカーに持物を全部入れて、身軽になると、さあ千百五十三メートルの頂上まで登るつもり。
日蓮聖人の身延山入山は五十三歳の時。状境、立場、質、時代…何もかも違うのであるから、私を近づけて考える何物もないけれど、今の私と年齢だけは同じで、同じ年での思いは共有出来るのではないか。彼の“あしあと”をたどって、私なりに何かを思ってみたい。
日蓮聖人の時代は、こんなではなかったはず…。参道、三門、杉木立の中の二百八十七の石段。登りきると大本堂、真骨堂、祖師堂。身延枝垂れ桜を添えた景観は何と見事なこと。
日蓮聖人が学び、耐え忍んだことによって今の巨大な荘厳になったのだろうけれど、なんだか日蓮の気持ちではないような気がするのは思い過ごし。彼の教えは広まらなければならなかったのだから。
日蓮聖人が両親を慕った思親閣へは、ロープウェイに乗った。ブッポウソーと鳴く木の葉ずくの生息地であり、山頂からは富士山が見え、房総が見え、南アルプスが見え…。こんなに神々しくも美しい山と出遇えたことも日蓮聖人の宿命だったことがよくわかる。
帰り道は、通常のコースを外れて、私の心のままに、誰ひとりに出遇うこともないような道を降りてきたら、身延川の水音大きく聞える所に、正真正銘、日蓮聖人が起居された草庵の跡に行きあたった。「ここに居られたのですか」。杉深く、淋しく、気象厳しい所。“自分の思うこと”を言うことのために、自らをこんなにも困難にされて…。
日蓮聖人を、いじらしくもいとおしく思うのだった。厚かましくも。
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