アルゼンチンつれづれ(210) 1996年05月号
十二歳の日蓮聖人
まだまだ寒い日々ではあるけれど、房総半島には春の花々が咲き盛っているという。
「菜の花畑を歩きにゆこう」。ちょっと早起きをして、勤めの人達の通勤時間の電車に紛れ込み、まだ行ったことがない房総半島の先端を目指した。東京駅から内房線に乗って、東京に近い埋立地の凄まじいコンクリート群を抜けると、東京湾のほんの海近くを走り、忘れ去っていたような田舎の風景が展開する。
蓮根を掘っている。コブシがひときわ白い。ミモザが咲き出した。蚕豆の淡いブルーの花。分葱がおいしそう。青菜も力強く…。田植の仕度がまだ始まっていない田んぼの畦の草々…。春のうららにひたってすっかり良い気持になりつつ終点千倉。
房総半島の先っぽの海岸線をずっとたどる。海から山に至る全部の景色に花が咲いている。金盞花、ストック、カラー、金魚草、矢車草、ポピー、菜の花…。土から、これほどまでにあざやかな色が生え立つことに、しみじみとしてしまう。
ひと休みには、さざえの殻をまわしつつ、だましだまし取り出した肝。「あーおいしい」。
毛がいっぱい生えていて、ゴニョゴニョとあやしげな雰囲気の百本のポピーの蕾を抱えて帰途につく。私の家中をポピーの花で満たしてみよう。
それはさておき、道中気になっていた「安房(あわ)」という地名。安房白浜、安房勝山…等々を通った。安房といえば日蓮聖人の生れた地、安房小湊。地図を広げておどろいた。ほんの近くまで行っていたというのに、花に目が眩んで反対の方向を向いてしまった。
日蓮聖人の名字をいえば貫名。私の子供達の祖父は貫名。高山福子と結婚をして高山姓を名のったからややこしくなったのだけれど、日蓮聖人、貫名海屋と確かに連なっている。
外国で生れ育っている私の子供達に、しっかりとルーツを教えてあげておかなくては…と常日頃思ってはいた。すぐ行ける所に日蓮聖人の生誕地があり、修行をした清澄寺がある。手元にある日蓮関係の本を、今一度目を通してみると、どうしても行かなくてはならない気持になり、三百五十三メートルの清澄山の頂上まで自らの足で登るつもりになった。そして今度は、東京駅から外房線に乗って…。内房とはまた違って、もっと田舎のおもむきの風景の中を走り、海は太平洋を見つつ安房小湊駅に着いた。
駅からすぐ海。海沿いに生誕地の誕生寺にまで行けるとよいのに、海にぴったり大きな観光用の建物が建っていて、なかなか海が見えない。誕生寺の境内に、十二歳の日蓮聖人の銅像がたっている。七百五十年も昔から今に続くものなのかどうかは別にしても、私の子供達の父親にそっくりな顔をしておられる。
目をつむると、こじつけの観光用の建物が消え、遠州貫名郷の領主であったが、領地争いの訴訟に破れ、安房小湊まで流謫(るたく)された貫名次郎重忠の漁仕事に甘んじるその手伝いをする幼い日蓮が見える。
安房小湊の隣の駅安房天津からどのように清澄山に登ることが出来るか。「歩いてはとても今日のうちには無理」「バスは一日に数本あるのみ」「日蓮聖人ごめんなさい」とタクシーに乗って房総丘陵にわけ入る。高くはなく、きびしくはない感じだけれど、とにかく山また山。七百五十年の昔には、十二歳の日蓮聖人が、この山頂を歩くよりほかに術はなかっただろう。三十二歳で南無妙法蓮華経の題目を唱えあげた旭の森の大人になった日蓮聖人の銅像と並んで立って彼の視線の先。日蓮聖人を知り始める。
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