アルゼンチンつれづれ(230) 1998年新年号

磯夫晩年

 岩波の『図書』に、北杜夫氏が茂吉の晩年、脳溢血後を「茂吉あれこれ」に書いておられる。
 『死の夢ばかり見ること。幽霊のようなものが出てくること。歌はもうボケてしまってだめだが、それでもかまわないで作っておこうと思っていること。意味が通ろうが通るまいがかまわない、でたらめな歌を作るよ、といわれたこと。老人性痴呆が徐々に進みつつあること。この病気は日によって意識がかなり異なる場合があること……』
 私の父、御津磯夫の九十五歳の現実を、書くべきか書かないでおくべきか、私はずっと迷い続けてきた。老いてゆくことは自然なことであり恥かしいことではない。今までの父は常に真実を教えてきた。
 今まで通り磯夫の生涯の家に居て年を重ねてゆかれるのだったら、そのままがゆっくり移って、書く必要はなかったかもしれないのだが、突如御津の家から磯夫が居なくなった。
 磯夫の妻米子が亡くなってからの十年近く、家族を東京に残したままの磯夫の長男の嫁が、御津の家で磯夫の面倒を見てきた。その彼女が手術を要する病気になってしまった。 磯夫は「おまえは病気ではないから、このままで大丈夫である」と言い張ったけれども、要手術の検査結果が出ている人は適切な手当がなされるべきで、東京で手術をすることに決った。
 生涯に渡って、全部のことに人の助けを受けてきた人が、また最近では一人では物理的に何も出来なくなった人が、化石のような昔のままの旧式な生活が出来る訳がない。
 年を取ったことも他人のせいであり、ご飯を食べてお腹がいっぱいになりすぎたことも他人が悪いのであり、何もかも他人が悪いという考えになってしまっている磯夫を、ちょっと家政婦さんに来てもらって…という訳にもゆかない。
 磯夫の次男が病院を経営しており、老人病棟の特別室に入るのはどうだろうか、と磯夫に相談をしたところ、「現代の医療を見るのに丁度良い」とまことに立派に答えて、私が東京から来て御津の家で一緒に住むという三女ごときの意見はどこかへ吹っ飛んだ。
 息子の病院で手厚く看護を受ける幸せを、磯夫は一日にして「こんな所へ流し者にした」「こんな病院は潰してやる」ということに全神経を集中することになり、「文学活動はやめた」と宣言してしまった。
 せっかくの最新設備の検査は全部拒否、現代に連なるためのリハビリはサボリ、次男を困らせることを考え出しては実行した。
 次男は、たちまち身も心も壊して心身症になってしまった。
 一分間でも一人では居られない磯夫に若い家政婦さんがついてくれて、彼女と一緒に絵を描いたりする天使のような時も探しだせたり、何とか安らかに居てもらえるようにと努力が日夜なされている。
 私達家族に対して、今まで一度だって声を荒だてるようなことをしたことはない人だった。立派な父だと誇りであり尊敬してきた。年齢ということがこんなに父を変えてしまったことにひたすら驚いている。人の一生のうち生まれたばかりの赤ちゃんに自分がないように、自分というもののない神様が支配する所にいま父はいる。精いっぱい生きていてくれる父の足をさすろう、背中をたたいてあげよう…いくら叱られても今の私達兄弟姉の真実の心を話し続けよう。

 
 

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