アルゼンチンつれづれ(241) 1998年12月号

五七五七七

 短歌というタイトル、五七五七七、この方法の万人に同等である短歌の許り方は、わずかに五七五七七にのっとってリズミカルであるか、文法が間違ってはいないか、という程のことしかなく、あとは無限に広がってゆく個々のセンスの問題になってしまう。
 良いか悪いか、好きか嫌いか、ひとつ経験を、うまい言葉で表現したと感心するとか、カリスマ、あこがれの要素があるとか…その感じ方は、人それぞれ皆異なるのであって、良い歌、良くない歌の判定は安易につけられるものではない。
 どれだけの心と、どれほどの経験をもてば他人の短歌をわかると思えるものなのだろうか。
 はじめより迷ひ迷ひて歌をよむ迷ひのはての青山南町(土屋文明歌集)
 先生のお心がどのように迷っておられたか、どのようなご事情の時の短歌なのだろうか。決して先生のお心と同じ、などとは思いも及ばないことであり、あれこれのせんさくはおこがましい。確実に正しく先生の短歌を解説することなど誰にも出来はしない。心の中で自らの状況と思いあわせ、自らの範囲で感じることが精いっぱい。
 作歌にしても、鑑賞にしても“感じ”ということが短歌なのだと思う。
 『青山南町』が、水戸黄門の印篭のように効果的に、これ以上はなく締め括られているように、ここまでご自身を高められたことが感慨深い。同じ言葉でも作者によってふくまれるものは大きく違ってくるものであり、いかに自身を高めるか、ということも短歌であると思う。
 土屋文明自選歌なのだから良い短歌であると判断をすることが習わしになっていて、今となってはそういう決定があることは非常に楽なことで、土屋先生のこの歌を読むと私は、
 惑ひつつ今日の惑ひの大きさよ惑ひのあけてゆくことはなし(今泉由利)
という自作歌を作る。土屋文明自選歌集を手にして、私の月々の短歌が出来てゆくことを改めて思い知る。自分のことを自分の言葉で心ゆくまで表現をして、テーマについても、読み、知り、教わり……尽きるということはない。そして、私は間違ってはいないだろうかの迷いは、土屋文明歌集を読んで修正をする。
 私の短歌をひとがどう読んで下さるか、ということについては迷いはあるけれど、精いっぱい行動をし、調べ……作歌したのだから。 三河アララギについては、主幹のもとで作歌してきた会員の短歌は、上手に出来た、下手である、こんなことは言ってはいけない、馴れ合っている表現……すべて良く理解出来、大きな安心の場所であり、このまま各々の容量を大きくし、言葉の巾を広げてゆけばよいと思う。
 流派があり、グループが異なり、それぞれの主幹の個性……。ひとつ短歌といっても決して分け入ることの出来ない境界線があり、同じ短歌にたずさわる者としての親しみ、愛しみは大きくても、同じ文字、言葉に、同じ共感や安らぎは見出せないのが普通で、ここで私は大きく迷ってしまう。
 新聞で読む短歌、テレビで見る短歌、町で見かける短歌……今までは近寄るものではない、近寄れない……で通してきてしまったけれども、日本語の五七五七七の範囲をもう逃げだしてばかりいてはいけない。もっと深く係わってゆこうと思う。

 
 

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