アルゼンチンつれづれ(250) 1999年09月号

父 九十七歳

 今泉忠男、御津磯夫、同一人物。すなわち私の父が九十七歳の人生を終えた。
 立場的に、思考的に、経済的に…とにかく常に全ての最高位でなければならなかった人。
 一族の長という立場もゆるがす存在はなかったし、医師としても、叱りつける患者さん達に恵まれ、生涯をかけての短歌においても三河アララギ会員に敬われ、思慕され、彼を追い越してゆくような、彼にとってのふとどき者は現れ出得なかった。
 心おきなく王者としての位置を保ち続けた一生だった。片田舎の範囲ではあったけれど。
 彼の六人の子供達にとって、父親は、子供ごときには目もくれない偉い存在だったから全員が父親と会話をしたということはなく育った。必要なことは母親から申し渡され、黙って言うことを聞いた。
 したがって、大人になってからも、父や母と同じ立場にたって短歌を作ろう…などとは思いもよらないことだった。
 たまたま私は外国に住みはじめ、外国での風物、習慣、経験、…父母と同じ位置ではなかったし、外国生活で世界における人間のありかた、合理性。個人として自立した性格の持主となっていたことから、父の短歌に入りやすかった。
 月々の短歌を父の主宰する三河アララギヘ送ることは、見えていた、聞こえくる…ことが、見たい、聞きたい、知りたい、と変わり大変な生きがいであったし、やっと父との会話が出来るようになった。
 ちゅうちょをしない私の短歌擬を、父は精いっぱい守り、育ったかどうか…でも育てようとしてくれた。わかりあえる相聞の時は続いていた。
 父が居なくなってしまったら、私は短歌が出来なくなるのではないか…。
 そのことは、とても怖い思いだったけれど、いつまでも頼れるものでもないし、頼れなくなったら終わってしまった…ということにはならない。
 父が九十七歳の最後まで守ってくれたものは、私の身体の消えてはゆかないリズムとなってしまっているし、ものの本質を良く見るという作歌態度も、私なりの習慣になっている。
 父は、いつデッサンやクロッキーや彫刻をしたのだろうか。
 医学生時代、箱根に旅をした一部始終が、長い絵巻物になって残っている。ひと筆の失敗もなく、人物描写も人体美学の基本をふまえていて感心してしまう。
 絵を描きたい私は、いつかたずねたことがあった。「どうして、こんなに人物が上手に描けるのか」を。
 「人間を解剖したから、うまくなりたかったら解剖してみるといいよ」。と教示を受けた。
 そんなわけにはゆかないけれど、それ以来骨格の標本をみることからはじめ、筋肉の発達したモデルの動きをよくよく描く。
 今まで、父にちょっぴり遠慮をしていたりでしゃばってはいけない、と自戒していたことなどを取り除き、いまこそ自身からほとばしる私の短歌を詠う時がきたのだと思う。
 三河アララギには、父と同じくらいに長い間、短歌を続けてこられた会員が大勢おられる。
 今まで培ってきた共通の思いのもと、今までのように、今までにも増して、教えを受けつつ、共に詠ってゆきたい。
 九十七歳になるまでも私をサポートし続けなければいけなかった父に、ごめんなさいとありがとうございましたと。

 
 

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