アルゼンチンつれづれ(257) 2000年04月号

短歌のリズム

風の音遠き世のこと思はれて昨夜の眠りの静かなりけり 土屋文明
 平成元年六月号「アララギ」の土屋文明先生九十九歳の短歌です。
 気負いでもなく、気の利いたことを言おうとするのでもなく、事実をありのままに。
 ご身体中、短歌のリズムであられたことでしょうし、無駄なことを省くというご真情であられただろうし。
 余分なことは省いて省いて、限りなく単純に、言葉も内容も透明に近づく。
 無駄を省いた表現は、省かれたその分のみならず、何増倍にも大きくなった余韻となって言葉をとりまき、そして短歌は芸術となる。
 芸術とは、余韻であると思う。
風の音=どんな季節の、どんな風なのであろうか、物思わせる。
遠き世のこと=現世の距離の感覚もあるのだろうか。世を隔てての架空の遠さなのだろうか。近くにいても遠くを感じてしまうのだろうか。
思はれて=確かを言葉で表現をしない漂い。
昨夜の眠り=昨夜眠られた本当のご様子。
静かなりけり=静寂は、大きな余韻をともなう。
 誰もが経験するであろう情景を、誰もが使い得る言葉でもって、誰もが表現出来ない境地にまでたかめあげられた。
 さりげなく、美しく、やさしくもあり、厳かでさえある。
 こんな風に、短歌を区切る必要なぞ何もない。区切ったりしてはいけない。
 静かに、何度も読んで、読者なりに感じればよい。
 短歌鑑賞とは、短歌作者個人の、生活や状態や心の様子…諸々をつつきだすようなことではなく、あくまでも読者の心でもって、読み読者なりに感じることが精いっぱいで、心がけることは、人と親しみ、自然の中に入り込み、古きをまた新しきを今を知り、個性豊かな、魅力ある人間になるよう、沢山のことがこまやかに感じられる、そんな感性をみがくこと。
 自分以外の個性を沢山感じられるように。 鑑賞することのみならず、短歌作歌においても、同じ心だと思う。
 何を基準に、短歌を上手である、下手であると、決めてよいものなのだろうか。
 人に直してもらうことに安心しきらないで、人に直された短歌を自作であると錯覚をしないで、たとえ下手であっても、ちょっと短歌のリズムから離れてしまっても、各々の個性が、短歌を作る基本であり、一つの個性を豊かにしてゆくことが短歌にたずさわることだと思う。
 人の個性と自分の個性とは、しっかり異なっているべきで。
 同じ国の同じ地方に、同じ春夏秋冬が巡り同じ時期に枯草の中から緑新しく芽生えがある。
 同じ位置で見ていると、他(ひと)と同じ言葉でもって表現する短歌になってしまう。
 決まりきった言葉の範囲のままに滞らないで、物理的に見る位置を変えてみたり、植物図鑑を調べ、関する本を読み、そのルーツを知り、スケッチをしてみるもいい。伸びあがる方向、宇宙へも思いをはせたい。
 他人とちがう個性をやしなう考えをもちつつ、その時々の自身の心を、生活を…歌おうとした対称に託す。
 そして、声に出して読んで、リズムを確かめ…こんな心で、自身の個性を発揮した短歌に向ってゆこうと思っている。

 
 

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