アルゼンチンつれづれ(261) 2000年08月号

おじいちゃんの朝顔

 トントントントン、長い廊下を、玄関や診療室へと、咲いたばかりの朝顔の鉢を運ぶ祖父の速足音で目覚める、夏の日のこと。
 「朝顔が咲いたよ、目がさめるよ」と起されるのでした。
 隠居の祖父は、朝顔やヘチマ、ひょうたん、裏の畑では、胡瓜やトマト、西瓜、南瓜…等々作っていて、夏の蔓草、野菜の花…。いまでも“おじいちゃん”と思う。
 春夏秋冬の野菜、花、風物、行事、みんな祖父と祖母といて知った。東京入谷、朝顔市がたつ。はじめて朝顔市へ行った時は、東京の人は“どうしてこんなに沢山の朝顔だけの市をするのだろう”不思議だった。
 朝顔だから、朝早く行かないと“朝顔の花はあした咲く”となってしまう、「六時にスケッチに行く」と友人達を誘った。「朝は苦手」「一日が疲れる」とかで残ったのは私一人。
我家から、徒歩+電車、十五分程で入谷に着く。根岸の正岡子規庵はすぐ近い。まず子規を忍ぶ。
 この辺りには、画家中村不折も画室を構えていた。そして、子規に写生をするということを教えたのだと。
 理想、空想、美化…の月並みになりやすい俳句、短歌に、本当の物をよく見るという写生をすることにより、今まで気付かなかった造形が見え、より自然に近づき、自然から本当の言葉がほとばしる。
 より深く物を見る、感じるということは、その物を描いてみることによって、はじめて生まれくる。
 何もかもが品種改良とやらで昔をとどめない世の中ではあるけれど、朝顔市の朝顔は五十年前の“おじいちゃんの朝顔”と同じ。
 昔のアングルではない、今の私自身の朝顔をスケッチしようとする。歩道橋に乗って、上から見下ろすと、行燈仕立ての丸い輸と、丸く咲く朝顔の色とりどり。朝顔は、天を向いて咲くことにあらためて気付いた。
朝顔市に咲く一花一花を隈なく見、まわりの入谷、根岸も歩きまわり、竹隆庵岡埜の“こごめ大福" の重量感をよろこび帰る。
 こごめ大福は、お米のつぶつぶが、懐かしさを思い起させ、少し固くなったのは、祖父が火鉢で焼いてくれたように、こんがり香ばしく焼く。
 またまた“おじいちゃん”を思う。
 スケッチにゆくのは、なかなか条件がととのわない。雨が降る、風が吹く、手がちぢこまる寒さ、画紙にまで滴る汗、人混みはだめ…こんなに大変なのだから、といえば永久に描けはしない。とにかく我武者羅に出掛けるほかない。
 それでも暑くなる前の方がいい、と皇居東御苑へ出掛けた。
 東京のどまん中、大きなスペースにほとんど人影もなく、木影は深々、日向ももちろん、細菌すら居ないのではないか…ほどに手入、監視がゆきとどき、汚い思い、恐しい思いは無、ほとんど天国状態。
 植木の刈り方が独特であったり、何しろ江戸城の跡なのだから思いは歴史をかけめぐる。
 歴史でいっぱいになっている頭で、現実の風景をスケッチする。
 皇居を出て、近代美術館工芸館辺りから武道館にかけ興味深い景色は続く。
 また今年も不忍池で蓮が咲く。月島、佃島、隅田川上流から下流、東京湾に至るまで。葛飾柴又、江戸川堤。根津、谷中、描きたい場所にはこと欠かない。そして夕刻、その所々のおいしい物にももちろん。

 
 

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