アルゼンチンつれづれ(268) 2001年03月号
富士山側
長かった外国での暮しから、日本へ帰り、東京に居を定め、毎月の第二日曜日と第四日曜日には決まって新幹線に乗り豊橋へ行く。
そして、乗り換え愛知御津駅へ。三河アララギの編集会と歌会とに出席するために。この他にも、時習館の時の友人達に逢うというもくろみや、何かと用事がある豊橋。何といっても古里なのだから。
私の母今泉米子、三河アララギ会の母とも。夫、御津磯夫創始の三河アララギ短歌会の存続に心を尽し、長い間、外国に暮し、外国から三河アララギに投稿を続けていた私を、日本に帰り、父と母との命であった短歌会を続けてゆくように、母から指示をされ、約束したことがあったことは、私が生きている限り守り通してゆく。
どのようにしたら、父と母との希望に添えるのだろうか、そのことについて常に思っている。
父と母と同じ、ということはあり得ないけれど、父と母を踏まえた私であり、全身短歌であり続けたい。
時は過ぎ、世は移り、相応に言葉も表現方法も、短歌に歌われる生活も景色も変化してゆくことは当然のこと、沢山のことを知り、経験を重ね、途上であり続けるだろうけれど、これからの自分にどんなプラスを加えてゆかれるか、日々の行動に心してゆく。
外国から日本を、すなわち父母を思った歌は、私の大きな糧であり、日本語には不自由をしたけれど、地球の単位の中の小さな存在の自身の心を見る角度を持つことが出来た。 子規の写生というに従って物を見、考えているつもりになっている。
同じ物を見ても、人それぞれ異なった表現になるもので、他人と同じ表現をするのでは面白くない。ユニークに個性的な表現が出来るよう、自分自身を豊かにする努力をしているつもりでいる。
既成を踏まえ、既成ではない短歌にたち向かってゆこうと思っている。
東京から豊橋まで、遠いようだけれど、新幹線に乗っている間が、とても頼もしい時間になっている。
四季折々の風景もみたい、本も読みたい、東京駅で買って乗ることにしている、“深川弁当”も食べなければいけない。
深川弁当とは、東京深川、松尾芭蕉の庵のあった所、現在も諸々が保存されている。昔から、この辺り浅蜘がよくとれ、浅蜘のみそ汁をご飯にかけるような食べ方が深川丼といい、深川弁当は、浅蜘の炊き込みご飯の上に、浅草のりを敷き、その上に江戸前穴子と東京湾の沙魚の甘露煮、小茄子のかす漬け、ベッタラ漬、きざみ油揚の甘辛煮。素材にも、こじんまりとしたお弁当は、富士山が見えみるあたりでいただく、と決めている。芭蕉もきっと、こんな食物を食べておられたにちがいない、などど思いつつ。
いつも富士山側の指定席に座って、富士山のその時々を見のがさない。もちろん雲に覆われて見えないのもまた富士山、雪煙をあげていることも。
浜松駅を過ぎ、浜名湖になる前、蓮の畑(?)があり、その時々の蓮池風景。今は冬枯れているけれど、白蓮華、紅蓮華、大きな葉のそよぎ重なり。毎回、必ず確かめて通る。 弓張の山辺りから、作歌活動をしておられる皆の日常の風景になり、畑の作物の様子など、この風物に順応して、目的地に着く。
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