アルゼンチンつれづれ(276) 2001年11月号

ニューヨーク・テロ

 一日の用事を終え、家に帰り着き、ちょっとリラックス。「今日は、どんなことがあったのかな!」と、テレビのスイッチを入れた。「チャンネルを間違った」と思った。人間や物が、ぶっこわれるアクション系は大嫌い。瞬きをして、ニューヨークの燃えあがるビルの映像が、架空のことではないことを知る。
 「大変!子供達が!」私が電話にとびつく前に、ベルが鳴った。
 「何か!大変なことが起こっているらしい。まだ何が、どうなったのかわからないけど、お母さんが心配するから、とにかく電話をしたの。繋がってよかった。電話も不通の所が多いらしい。由野は、ニュースを伝える立場だから忙しく、ずっと話してはいられないけれど、ラインはずっときらないでいようね」。
 由野が設定してくれたこの電話は、ニューヨークの会社で仕事中の由野と、仕事に出掛けようとしたところで外出出来なくなり、家に居る玉由と、東京に居る私と、三ヶ所が同時一緒に話せるようになっている。
 テンテコ舞をしているらしい由野は、たえずラインを留守にするけれど、玉由と話しをしていると「ちょっと手があいた」と、由野が話に入ってくる。かと思うと、またどこかへすっとんでゆく。オフィスのざわめきが聞こえてくる。玉由が私と話しながらパソコンを打っている音も聞こえてくる。
 日本のテレビの情報はかなりはやく、ニューヨークの映像を見ながら、ニューヨークにいる彼女達のすぐ近くで起っていることのなりゆきを知らせるのは私。
 この世のこととは思われない、こんなことを考えだせる人間がいることに恐れおののき、ただ受話器を握り締めていた。子供達が、どのようにこのことに対処しているか、ずっと把握出来ていたことが救いだった。
 ニューヨークと私を繋ぐ電話は、とうとう十時間にも及んでいた。子供達とブラジルに居る父親とは、二十四時間開けているメールで繋がっていた。
 ニューヨークヘ行く度、貿易センタービルの最上階、百七階にあるレストランヘ行った。
 この世の風景とも思えないような、この背高いビルに入るには、荷物もだめ、コートもだめ、きびしいチェックがあったのに。
 「地震があったらどうするんだろう」と思ったり、「アメリカのすることだもの、どんな対策も出来ているはず」とも思っていた。 「私が、ニューヨークを見渡し、ワインを飲んでいた時にだって起こったかもしれない」とも思う。
 テレビの映像、そこで働く子供達のこと、おろおろと泣いてしまっている時、必ず子供達から電話が掛かり、「ちゃんとスニーカーをはいているから」「何が何でも生きぬくから」。勇気づけなくてはならない私がいて、子供達がしっかりしていてくれる。
 そしてこのごろ、「お母さん、ニューヨークが変ったよ。今まで自分さえ良ければのニューヨークっ子が親切になった。ゆずり合ったり、知らない同志あいさつを交したり、言葉を掛け合うようになった」。
 「自分が何が出来るか、何の役にたてるか、自分達で何とかしてゆかなければ、という連帯感ができた。ジュリアーニ市長が、そんな気持に導いてくれている」と。
 自分の痛みは痛いのだから、全人類、自分と同じ痛みは痛い人間なのだから。

 
 

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