アルゼンチンつれづれ(279) 2002年02月号

食事ということ

 人と人と、付き合う、親しみ合う、仕事をする、やさしい心になり合う。
 食事を共にすることが大きな要因になると思っている。食事の場所、内容、メンバー、を選び、いかに美味しく、楽しく、会話ははずむだろうか、打ち解けられるか、気持よく仕事が続けられるか…心を砕く。
 アルゼンチンで暮している頃は、ほとんど毎日、仕事なり、社交なり、そういった食事だった。
 自宅へ招く、招かれてゆく、レストランに席を設ける、など様々であったけれど。
 ただ単に自宅及近辺ということのみならず、アルゼンチンに住んでいて、ブラジルでの一つの晩食のため、飛行機に乗って出掛けてゆく。スペインまでも行く。イタリアにもゆく。中国にだってゆく。「食事をする」それだけのために。
 「大阪で食事を!」という日があった。午後七時の約束だから、東京発、午後三時半の「のぞみ号」に乗った。「こだま号」で豊橋へゆくのと同じ時間、二時間半で大阪まで着いてしまう。
 新大阪から地下鉄に乗り難波へ。出掛けてくる前に受取ったファクシミリの地図に従い、広い道路御堂筋をゆく、道頓堀川の道頓堀橋を渡る、お城のような三津寺がある。困ることも、探すというほどもなく目的のレストランに着く。
 大いに話し、大いに飲み、大いに食べ…もちろん最終の「のぞみ号」も出ていってしまった時刻となるから、大阪に一夜を宿る。
 昔、父母と兄弟と遊んだ「かるた取り」百人一首の「難波潟…」「難波江の…」が思わずよみがえる。意味がわからぬまま読んでいた時のように、今も意味は別にして、大阪湾の高層ホテルの窓から、“ここは難波潟であった”としみじみ思う一晩だった。
 次の朝、そのまま東京に帰ってしまってはおもしろくない。いつも京都に寄ってゆくことにするが、今回は大阪を歩いてみよう。『芭蕉を追いかける』、そんなことではないけれど、隅田川っぷちでの芭蕉のあとを行ってみたから、大阪となってしまった終焉の地を確かめてみよう。
 折から、雪雲厚く風強く…とうとう吹雪はじめた。ビル群は枯木に思え、芭蕉最後の俳句を句碑に読む『旅に病んでゆめは枯野をかけめぐる』を探すのにふさわしい震え上がる日だった。
 どうしてもイメージはさびれた方向にゆくのに、調べた辺りには、お寺とはとても思えない立派な「南御堂」とあり、しばらく立派な石垣を巡りさまよった末、大層な門構えの中へ入って行くことを思い付き、“獅子吼園”と名付く庭園に、天保年代の俳人が建てた「芭蕉句碑」をみつけた。まわりに植物芭蕉が植えられ、吹雪の中、広葉は破れはためき、深く深く無常を思ったのでした。
 「南御堂」の向い側、御堂筋の広い道路をへだてた所に『此附近芭蕉翁終罵ノ地ト伝フ』石柱が建つ。“翁”などと年を取っている様子を思うけれど、あまりに若い五十一歳の終焉。
 芭蕉のたどった土地、場所、ここかしこに残る俳句に出逢うごとに、年を経て古くならない俳句、その発想、大きなおどろきと感慨につつまれる。大阪で、しばらくは“思い”だけになって立っていた。
 大阪での晩餐は、友人と仕事と、百人一首と、芭蕉と、…。

 
 

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