アルゼンチンつれづれ(284) 2002年07月号

南フランス

 小学校に入学する時、母は真白いランドセルを買ってくれた。今のように皮ではなく、目の荒い油絵のキャンバスのようだったから父が絵を描いてくれることになった。
 山百合が庭に咲いている時生まれたから「ゆり」と名付くことになった。牧野富太郎博士は「百合」の本当の漢字は「由利」である、と主張をされ、私の名は、本当の方の「由利」にした、と父が言っていた。
 父の書斎のイーゼルの私の真白いランドセルは、診療の合間、応診の間を、描き進められ、山百合に御津南部小学校の校章が添い、そして出来上がった。
 あまりに個性的であり斬新であり、恥しいような誇らしいような、その気持は忘れない。
 それ以来、父のように絵を描く。父と母とを満足させられるレベルになりたい。今も思い続けている。
 私の家から上野の美術館ゾーンまでは、とても近い、のみならず東京の美術館には絶えず、世の東西古今の名作が展示され、世界の美術にひたっていられる。
 いつ、どのように、この名作が描かれたものであるか…その辺りにも興味は向き、ある程度は把握が出来ているものとしての南フランス行だった。
 トゥールズ伯爵の末裔の、アンリ・ドウ・トゥールズ・ロートレックの作品は、タルン川の赤土で作られたレンガで築いたお城のような、彼が住んでいた館にかけられていた。東京で何度も見た絵やデッサンやポスターや、その同じ作品が場所を得て。
 千年も前に建造された石橋に、現在の自動車が通ってゆく。こんな所だから描かれた絵。
 セザンヌのアトリエに行く途中、サント・ヴィクトワール山が見えていた。アトリエには、見おぼえのあると思うものが沢山あった。セザンヌがよく通った道も、もちろん辿った。
 オランダに生まれた、ゴッホ・ヴィンセント・ファンは、プロヴァンスに移り住み、アルルの街のいたる所に、ゴッホのあとが残されている。「黄色い家」「夕べのカフェ」「アルルの跳ね橋」「オリーブの樹」描かれた時の同じ位置に立ってみることが出来た。
 ピカソがアトリエとし、フランソワー・ジローとのグリマルディ城は、地中海の海辺にあり、景色は地中海の澄んだ色。城の隣のマーケットには、魚貝類、野菜類、花々…大きく丸い鉄板で焼けていた『ソッカ』…。皆、ピカソの範囲のものだったはず。
 千年を超える巨樹のオリーブが林に。ルノワールの庭には、彼の描いた木々草々。特にバラの花が豊かにルノワールのように。もう向われることのなくなったイーゼルには、バラの絵が残されていた。
 マチス美術館。建物の形も色も、何も知らないでここに来ても、すぐマチスに思いは至る。マチスには、本当に沢山の感性をいただいた。そしてここに極まった。
 本当の作品が本来あるべき場所にあり、作品をとりまく風景、生活、時…。そこに本当の風が吹き、本当の日が当り、本当のことばかりのなかにわけ入った。
 丁度、フランスの野に雛罌粟(コクリコ)が赤かった。
○ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌栗(コクリコ)われも雛罌栗(コクリコ)
                                   与謝野晶子
 与謝野晶子は「君も」参加をさせているけれど、私は、この雛罌栗を、何としても自分の一人じめにしたい、と思ってしまった。

 
 

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