アルゼンチンつれづれ(288) 2002年11月号
日本画
ずっとずっと、「日本画」の存在が気になっていた。
いつか見た日本画が、光る石でキラキラ輝いていたこと、油分がてかてか光らないこと、岩絵具の美しい色。
おこがましくも、気恥かしく、とても自分が日本画を描くことを、実行には移せなかった。外国に行っていてかなわなかった、ということもあった。
今こそ実行に移さないと、時間がない。上手に自分の締め括りをしなくては。
日本芸術院の院友の先生の生徒となる。私が入門した日、八人居る弟子が、グループ展をするべく計画をしていた。
私も誘って下さったのだけれど、和紙、パネル、墨、岩絵具と…集めるのに大童、日本画というものが描けるのだろうか…の状態の時、それでもグループ展のスペースに入り込むことに決ってしまった。
何とか二枚ほど。何とか日本画を…期限がある切羽詰まったはじまりだった。
何はともあれ、まずスケッチをしなければ、日本画の本画に仕上げようとするスケッチは丁寧に丁寧に。
王子神社の境内に椿が沢山あり、丁度椿の花の時だったから、木の下にもぐって描いたり、落花を拾って帰ったり。その椿と、煮っころがしを入れる鉢と組合わせてみた。
まず線を描く墨の色も沢山あることを知る。
選んだ墨を硯ですり、膠をふやかし、煮溶かし、カキの殻を砕いて出来た胡粉を、もっともっとなめらかにするため、乳鉢ですり、先程煮溶かした膠を混ぜ、団子を作り、それをたたきつけること何十回、練りあげ、ぬるま湯につけて、あく抜きをする。
芸術院の先生は、手抜きをさせない。日本古来の方法を強いる。
えらいことを始めてしまった、と思う反面一つ一つの工程を丁寧にこなしていると、身も心も落ち着いてくる。
岩絵具が、とてもとても美しい。一つの原石を、十三段階の粒の大きさにわけ、もっとも大きな粒が一番、だんだん粒を細かくしてゆき、十三番では白に近づいてゆく。一つの原石をこんなに色分けてしまう感性にどきどきしてしまう。
ひと言に群青と、ひと色をあらわせないことを知る。
辰砂からは朱を、コチニール(カイガラ虫)は赤、アズライト岩は群青を、水晶末とか、珊瑚、雲母、金、銀…膠で和紙にはりつけてしまう。
石を砕き、草木を、実を、虫を、土を…それぞれの地域にある物で、色を染め、絵を描き、薬にもし、そうして人間が生きてきた、そのままが、きめ細かく、繊細に研きあげられた日本絵具、たまらなく美しい。
法隆寺金堂壁画の時代千三百年も、もっと昔から、ほとんど変らない同じ技法でもって変色もせず、こんな素材にめぐりあえ、自分の範囲を少しでも高めたい思いにかられる。 日本画というにかかわって、わずかな日数しかなかったけれど、グループ展の私のスペースを埋めることが出来、大勢の人が見て下さり評もいただき、とてつもなく大きな背のびをしてしまっている勢いでもってどんどん描いてゆきたい。
開発されている技法はもちろん、これから自作に作りだしてゆく技法、そんなこともふくめ、自分の可能性を思おうとしている。
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