アルゼンチンつれづれ(19) 1980年05月号
アルゼンチンへ帰国
見てはいけない物を見てしまったように、早朝の多摩川土手を走っていた時の驚き。桜の花が咲き始めているのです。桜並木が多い田園調布の通りすがりにはまだそんな様子はなかったのに。桜の季節の日本をさまようことのなくなって、十何年ぶりかで見る日本の桜の咲き始め。長い花頸がなつかしい。
そして、その花に追いたてられるように、夏休みが終ってしまったアルゼンチンヘ、学生である我が子等を学生にしてやらなければ、真空パックの佃煮や漬物を詰めての荷造りもあわただしく。規定用とフリー用の二足のスケート靴が要る長女、次女と私のと四足を入れるスペース、三着づつのスケート着、オーバーズボン、アノラック、持って行ってもまた日本へ帰ってくる日まで無用の長物と化すかもしれないことをはかなみながらも持たねばなりません。
長女八歳の日本スケート連盟三級のフリーまでが受かったことを、三ケ月半の実績として、スケート以外は何も出来なかったけれど、心ゆくまでしたいことをしたのだから。子供達の力では持ちきれない程持ってゆきたい物が詰っているリュックサック姿を追い立てながら、リオデジャネイロまで直行、乗り変えてアルゼンチンという飛行機に乗り込みました。時差の関係で何度でも運ばれてくる機内食を逞しくたいらげる子供達。その間々に重く携えてきている幕の内弁当、すし、おむすびとよくまあ。そして一人は衣裳ケースを座席の下に敷いて、長々と足をのばして寝ます。もう一人は三人掛けの椅子の肘掛を取って、私の膝を枕に、丁度身長いっぱいで、毎年のこの旅行で育ってゆく子供の様子がわかります。
あんなにあわただしかった日々の後に、何もしなくても良い時間がここに三十数時間。あれこれ出来ると地上では思うのですが、飛行機に乗ると倦怠感に満ちみちて、ボケーッと生あくびなどして、何をする気持にもなれないのは、非常な上空に、すごいスピードでいるという、人間の生理に逆らっているからなのでしょうか。それでも地上より少しは近寄ったせいか親近感を持つ夜空の星、朝になってゆく雲海での太陽、窓に付く氷の結晶、離着陸時の飛行機の翼のブルブルともがれるのではないかの様子と気をまぎらすものを探しながら。坐りっぱなし、足はまがりっぱなし、二度とこんなことはしたくないと毎度思うのですが、あきらめて乗っておれば、地球を半周して私の家に着くのだから。
例年の芒の穂を確めるとそこが私のアルゼンチンです。今回はあの懐かしい甘い空気どころではなく、最近五十年間における三月の平均最高温度を新記録中とて、オーバーを着ても寒かった成田を発ってきた身体に三十七度の熱風を受けて、私達は菜が萎えてしまうように。
夏休みが終ったばかりの学校は、この猛暑に授業中止にて、塩分の多い食事をするように、との厚生省の御触れまで出た。「よかった、学校あまり遅れてない!」と子供達。家に着くなり、学校の友達から電話がかかり、さあスペイン語に切り変えです。日本で七歳になった次女は、聞いて理解しても、彼女からの言葉が出てきません。アルゼンチンで生れ育ち、学校教育を受けていてこの調子ですから、もし今この国を引き上げたら子供達にスペイン語は残りません。せっかくだからスペイン語を一生使える言葉としてやりたいものです。
三ケ月半留守をしたアルゼンチンはゼロの単位をまちがえた程インフレ、物価高になっていて、自衛しなくてはなりません。子供達も大きくなったのだから、もう人手にたよらなくてもやってゆけます。二人のお手伝いさんに暇を出し、ゴルフのクラブのはずだったのを掃除器に持ち変えて、これ以上小さくなれない単位の四人家族となって、元気にやってゆくのです。
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