アルゼンチンつれづれ(21) 1980年07月号

アルゼンチンでの日常

 まだ歩かない頃の玉由(長女)を肩車したり、スペイン語の本を読んでくれたり、学校から直接おやつを食べに来て、学生服も可愛らしく我家の一番上の娘のようだったラクェリータが結婚することになりました。もうずいぶん前、由野(次女)がおむつをしている頃、ファッション・ショーに出るラクェリータに着物を着せてあげた頃から、彼女のまわりに彼、テオヒロの笑顔があるようになりました。今までには、しばしば結婚式に出逢い、仲人までしなければならない羽目となったこともありましたが、今回がなんといっても身近で、これを機会に、私達がアルゼンチン住いを始めてからの思い出が駆け巡りました。 赤ちゃんぽかった彼女との出逢いは、私達が全て無となってアルゼンチンに住み始めたごく初期の時点です。日本で学んだ染織図案の個展をするべく、その画廊の、昔、広大なアルゼンチンの土地を、少数のファミリーで支配したという、その中に名を連ねる名家の女主人セリーナ・アラウス・ペラルタ・ラモス・デ・ピロバーノという、スペイン語というよりは外国に無知だった私が、何度聞き返しても覚えられない名前の持主と知り合い、身振り、手まねでの付き合いが始まり、つねに女王のごとく気位の高い彼女を叱ることのできる唯一の人となるまでつき合い続けて今に至りました。このセリーナの二人の妹のラクエルとマネーのうち、ラクエルの一人娘の名前がラクエルで、母と娘と同じ名前ですから、娘の方にはリータを付け小型ラクエルにするのです。
 娘が遠縁の名門に嫁ぎ、さあ悠々自適と思える彼女が「たった一人になってしまった」と私に抱き付いて涙を流しました。あんなに小さかったラクェリータが結婚する年になってゆくのだから、私の娘達にもすぐそんな時がやってくるはずです。アルゼンチンに着いて、極限の淋しさを味わったと思っている私は、淋しさに対して注意深く未然に予防線を張って、自分一人になっても、惚けてきても、気を紛らしてゆかれるものを持っておく為の、絵、織物、短歌等、今は準備の日々だと思います、今まで生きてきて、秘かに残念だったり、悔しかったことのある私の次元で娘達の人生を終らせない為に、娘達の先輩である私は、惚ける前の今しばらく、心ゆくまで子供達を教育しようと思います。
 ラプラタ河畔の会員制のヨットクラブで開かれた披露宴での御馳走は、まずは吃驚、呆気にとられ、見ておくのに良い機会と思うばかりで、私には食欲というものはありません。姿のまま焼かれた豚は背中が細目に切られ、何か食べられる物で型作られた鹿には、仕上げの飾りに背に矢が打ち込まれ、見て痛いのです。剥製の薙子が、爪の長い鱗状の鳥の足のままに、食物の上に立っています。白鳥の姿をした食物は、羽の部分が本物で、羽に付いたクリームをペロペロする勇気はありません。大きな七面鳥も姿のまま足を上にして、招かれた三百人の人々の絶賛をあびた立派な御馳走も、もう少しお手やわらかになどと思ってしまうのです。
 食べるということよりも次々と頬にキスしてのあいさつ、ずいぶん知人が増えました。これだけアルゼンチンに入り込んで生活していると思いつつも、食習慣に民族の違いをまざまざと思い、おすしを思い浮べる私の存在は、うろちょろした外国人に過ぎませんでした。

 
 

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