アルゼンチンつれづれ(37) 1981年11月号

日蓮上人(貫名海屋)

 「お父さんって甘えんぼ、すぐ自分のお母さんに逢いたくなって、日本へ行くことを考えだすんだもの」と子供達に評されながら、いつもの朝と同じに「じやあ!」と、ブラジル、北米、日本、地球上の何処へでも、着替えを持つではなし、何が入っているのか私は知らない書類カバン一つで出かけてゆく我家の家長。私は、送りにも迎えにも飛行場へ行くということはしない。男の大人なのだから女子供の廻りでうろうろせず、雄々しく考え大きく行動して欲しい。家族は決して足を引っぱらないのだから、思い残すことがないところまで働いて欲しい。時々は父親の特権を行使しに帰ってはきても、ただでさえ戦火の中を逃げ廻った世代の日本の男性は、アルゼンチン生まれの子供のリズム、好む食物、学校とその友達のこと、全てにずれてしまって一人ちぐはぐなことを言って、まあもの悲しいような訳ですから、またまた仕事をする以外ないのです。父親の存在とはそういうものでいいと私は思う。
 淋しい、悲しいとの発想がなくても、勝手に涙が零れてきて、涙ってどのくらいあるんだろうなんて自分をみつめていたアルゼンチンに着いた頃、いつまでも親の脛を噛っていられるような気持でいた私への経験は、日本から一番遠く、知人もお金も言葉すら分らない国で、人生で初めて、生きる為に働かなければならなくなったこと。
 「アンデスの山々へ登りに行った帰り、アルゼンチンで食べたビフテキはうまかったから一緒に行こう」と私を誘った山男と、共に考え、共に働き、私も一人前に働くということに、しっかりと参加している思いを持って五年間、やっと子供の父母となっても何とかかっこがつく時点で子供が生まれ、世の仕来たりに従って、父親はそのまま外へ出て、今まで二人でしていたことを一人で受け持っての仕事、生まれたての赤ちゃんというものを初めて見た母なる私は、その生まれたてを育てることと、ここで完全に分業を宣言し、種目は異なるけれど、私達の競争を開始して十年がたちました。
 父親の方の仕事がどれくらいにいっているかは、私には評価出来ませんけれど、子供を育ててゆくのに不自由はない程度の経済状態が続いています。
 私の子育てがどう進んでいるか、子供が生まれるに当って、ただ大きくなってしまったという育て方だけはやめようと思いました。 遠くは日蓮上人、近くは貫名海屋という日本の偉人の血を引く私の二人の子供がその名に安心してしまわないで、祖先を追い越してゆくような人になって欲しい。
 どんな面からみても、一度も偉くなったことがない私が考え実行することなどたかが知れていて、指導性に欠け、その相手の子供も祖先の血が有効に利いているとは思えない私の子供。共に才能が無いことを知りつつ、無ければ、努力でもって人並にさせねばなりません。今の時点では、出来る出来ないに関りなく、自分の力の限りやってみるということを教えようとしていますが、小さな子供が、しんどいことを進んでやろうという気持などある訳はありません。私のやり方は間違っているかもしれませんが、思い立ったことは実行してみます。
 身体を自由に使いこなす体操、エレガントさのバレー、動いて血の巡りを良くすれば、自然頭の回転も良くなるはずだし、大きくなってから手後れの悔しさを味わわないよう音感ではギター、語学は、スペイン語、日本語、英語、と物心つかないうちに人間の基礎を作っておいてやれば、必要な時、自分で自分なりの生き方を見つけることでしょう。

 
 

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