アルゼンチンつれづれ(38) 1981年12月号

ウルグヮイへ

 我家の主が留守であるということは慣れっこになっているものの、ブラジルに居るのと違い、日本まで行ったとなると、やはり遠くへ行ってしまったという気持になるもので、その留守の日曜日、ちょっと気分転換を、朝出かけて夜には帰って来るのだけれど、子供達も私もまだ知らない国、隣国ウルグヮイまで行ってこようと計画をした。
 子供の年齢程度の、ウルグヮイに関する歴史、地理等、ひととおり目を通し「テルテル坊主の頭の中に五円玉を入れたよ」「あら、蚤を入れるのじゃなかったかしら」「蚤って何?」と晴天を願って、三人でのアバンチュール決行。
 日に何度も往復する水中翼船、飛行機等、あっという程の時間で着いてしまう乗物を避け「ラプラタ河を船に乗って渡ってみたい」という私の念願を十五年振りに叶える為に、一番長くラプラタ河に浮いていられる船の旅を選びました。ブェノスアイレス港から、ウルグヮイのコロニアまで、ラプラタ河の一番狭い所を横切って、距離にして七十キロ、時間にして三時間三十分。
 もうとっくに春になっているのに、今年はまだ寒い早朝の、ブェノスアイレス港から、油のしみた太いロープが引き上げられる船員の出発の動き、前後を誘導船に導びかれつついっぱしの船出の気分、舟の前方、後方のあれこれ、水の側から見るブェノスアイレスの町と、見たいことがいっぱいあって忙しいこと。
広いひろいラプラタ河といえども、大型船化した今の世に適さない浅い港、浅い河ということで、河の中の運河の位置を示すブイに従っておとなしく進む。
 目系人の見当らない船の中で、日本の子供が二人、何もかも興味シンシンでうろうろしているので、船長が特別に操縦室へ招待して下さいました。予定外のうれしい出来事で、船の運転、レーダーの見方、ラプラタ河の地形、もう船を動かせる程に教わって、感謝した玉由が、その日の彼女の持物の中で一番大切なテルテル坊主を、日本の謂(いわれ)を説明し「船の安全に」とプレゼントしました。今度は船長が感激して「いつまでもこの船のお守りにします」とまわりの船員に言い含め、玉由と由野のサイン入りの五円玉が頭に入ったテルテル坊主は、操縦室に飾られたのでした。
 はるか続く航跡にブェノスアイレスが見えなくなると、水と空だけの景色がしばらく、前方に見え始める陸地はウルグヮイです。
 アルゼンチン側に泥を落し、ウルグヮイ側に白砂を運ぶという河の自然の営みで、着いたコロニアは水の色も水色、白砂の河岸は日頃見なれたラプラタ河とは思えません。
観光が主の国だから旅人への当りは柔らかく、アルゼンチンとは変らない形式だけれどウルグヮイのお金で昼食し、ラプラタ河の今まで見えなかった側の景色の中を歩き、名所旧跡、博物館と七時間ばかりのウルグヮイ国滞在を終え、アルゼンチンの中を七十キロ移動するのと、国境を越えるということは、国の異なることだと知りました。もっとも「お母さんはウルグヮイヘ行くと言ったけれど、いつウルグヮイに着くの?」とコロニアの町で由野が思う程ではありますが。
 来た時とは反対側に太陽が移って行って、きらきら水面の光る夕刻、朝乗ってきた同じ船の客となりました。朝霧から太陽が河に沈んでゆくまで、すっかりラプラタ河と付き合って、水の上で暮れてゆく淋しさに、十五年前船でアルゼンチンヘ「さて、どうなることか」と着いた時のことを思い出しました。あの時とは違って、今は見えてきたいっぱいのブェノスアイレスの町の灯のその中に、私の明りをつける場所がある。

 
 

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