アルゼンチンつれづれ(42) 1982年04月号

 

 地球上の文明?国を動き回るだけでは、まだ不足らしく、今度は植村直己さんに付き合って、アルゼンチンの南極基地まで行ってしまった子供達の父親に相談するすべは無いのだけれど、日本に来て、子供達の現在の生きる目的、スケートも体操も軌道に乗り、ニコニコと日課をこなしているのに、またスーツケースを提げて旅に出るという細切れ生活をするには忍びなくて、日本の血を持っている子供達なのだから、この辺で春も夏もある日本に住んでみよう。
 そうと決めたら、毎年の日本滞在のように、父親の実家田園調布への居候をやめて、私達が十五年間外国で格闘してきた、ささやかであってもかまわない、その範囲内の我家のリズムを日本の中に持ち込むべく、女子供だけで住んで危険がなく、車も持たず、自らの歩みでもって基本の生活をこなせる所と、十階建のビルの九階に居を探し当てました。
 便利さのみを求めたつもりだったのに、引越しの整理をしつつ、西側のダイニングキッチンの窓から、富士山を見つけた時のうれしさ。「富士山だ!」と騒ぐ私に「お母さん、ずいぶん興奮しているね。あれと同じ形をしたた山、ニカラグヮに行った時二つもあったじゃない。玉由としては、もう少し荒っぽい方が山らしくていいな」「日本中の人は皆富士山が好きで、富士山とは富士山であって、今までかってその形に注文をつけた人なんて日本人にはいないんじゃない」こんな会話の後富士山も我が家の一員のごとく子供達の心となってゆく。
 東側のリビングルームの窓から、品川駅の全貌。東海道、横須賀、京浜東北、山手、総武、京浜急行、新幹線、ちょっと離れてモノレールが見え、羽田へ発着する飛行機まで加わった展望。早朝から深夜まで、いろいろな思いを持った人間を乗せて、定められた時間のままに移動する電車、時々はその乗物に我身も加えることもあって、それにしても、まだ私の知らない所へ向っておおきな移動がくり返えされている様子を、窓にくっついていつまでもあきない。
 富士山と品川駅にはさまれて、アルゼンチンと日本がごちゃ混ぜになった生活が始まった日々にも、子供達の望郷の念は大きくて、浅蜊の汁を作れば、それを食べながら「これがメヒジョン(ムール貝)だったらなあ」私がアルゼンチンで憧れ続けた味も、子供達にはこの一言となるのです。「じゃ、ミラネッサなら日本でも出来るから作ってあげるね」「ワーイ、明日はミラネッサだ」私も子供も夢中でそれを口にする時に向って集中する。塊で買った牛肉を、アルゼンチンの時と同じ手順で切って、何一つ手違いなく出来上った物に、子供達の歓声は無く、しょんぼり口を動かしている。「おいしくないの!」「これはミラネッサじゃないから、ミラネッサの味を待ってた口がびっくりしているの、日本の物だと思えばちっとも変じゃないんだけど」え!ミラネッサじゃないの、どこで違っちゃったのかしら」犯人を探す探偵のごとく。「肉の味が、塩もパンも油も何となくアルゼンチンと違うから、それが重なって全然違う物になってしまうんだね」「アルゼンチンへ行って、ミラネッサ食べたい!」結果的には益々思いをつのらせて、私の失敗。
 何でも平気で食べている私を見ながら「お母さんは日本人だね。何時になったら玉由も日本の物を口に入れた時、うまいって感じるようになるのかなあ。まあ、食べる物があるんだから死にはしないよ」と割切って考えられる玉由。「漢字を覚えなかったら日本の学校に入れないから、そうすればアルゼンチンへ帰れる?」と由野。

 
 

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