アルゼンチンつれづれ(67) 1984年05月号

沢山練習

 黒い土が耕され“何なのでしょうか”野菜の芽ぶきを待っています。竹藪は重量感を伝えて揺れ“風があるんだ”。洗濯物と共に家々が重なり。ぎっしりと墓石が建つ墓地も見え“生まれてしまえば、死んでまでも狭いといわれる日本の国土のその幾許かの面積を専有することになるのだな”。
 ひたすらに白、濃いピンク、ハッと黄色、まだ葉のない木々に、それぞれの花が満ち、電車のスピードにパッと現われ、また次々と。
 早朝から夜中に至るまでの練習を要する、二人の子供にそれぞれ異なる場所で異なるスポーツをさせる、そのコントロールをする神経、時間、とても他人に頼んでこなせるような生活ではないので、日々の自分から抜け出せなくて、いろいろな日本を見には出かけられないのだけれど、郊外へゆく電車の窓の景色も振動にも参加して、川越まで行く機会がありました。
 三日がかりで玉由のフィギュアースケートの試合がありました。
 川越大師、国宝の襖絵、羅漢様、倉の残る町並等、ひょっとしたら抜け出してあちこち見てこられるかなと思いましたけれど、いざ試合に入り込むと、とてもそんな気持になれないで、ホテルとスケートリンクを往復しただけで過ぎました。
 “日本の仕事をする人は一日仕事をして、そしてこんなに味っ気ない部屋で寝るのだわ”と同情に値するビジネスホテルの小さな部屋で、ショートプログラム用とフリー用の二着のコスチュームにキラキラ光る物を一つ一つ縫い付けながら過した待ち時間。玉由自身が輝やくのを、物理的な光る物にもちょっと助けてもらうのです。
 由野の体操の友達が練習中に怪我をして入院した時には、皆で千羽鶴を作るといって割り当てられたかなりの量の折紙を“こんなことしたって直るものではなし”という日頃の私の強気は打ち捨て、これで直るんだったら、気持が静まるのなら、一生折り続けていてもいいと。同じことをしている同じ年代の子供への事故であれば、他人事ではなく、体操をさせるということに気持が乱れました。子供には決してさとられまいと思いつつ。すべてに打ち勝って、強い強い子になって欲しい。
 下を向いて手を動かしながら、あれこれ思い惑い、祈ることが多い生活です。
 日本中から五十一人のジュニア選手が集まり、そのコーチ、父兄、小さな町の中で出逢うのは、日本へ来て二年間のスケート生活で顔見知りになってきた人達ばかり。日本中で世界中で、私のようなクレイジーな生活をしている人達がいっぱいいるのだという思いを新にします。
 今回もまだ一番にはなれませんでしたけれど、親の欲目という言葉があることを充分に承知で、私の子供が生まれるにあたって“こうあって欲しい”と思い続けた玉由の雰囲気が氷の広場に三分間発揮され、“玉由ありがとう”とこんな眼で自分の子供を見たのは初めての経験でした。そしてまたまた“人に勝つため”の挑戦をしてゆかれるエネルギーがあることを感じました。
 「今までテストや試合であがっちゃったりして、何だか自分らしくないことをしてしまったことがあったけれど、それはどうしてかなーとずっと考えていて、沢山練習をして自信をつけておけば全然あがらないことが今日わかったの」と玉由のいう収穫を得、高輪の家では祖母と留守番の由野「フライパンにちょっと油を入れて、餃子を焼いてお祖母ちゃまにごちそうしたよ、お祖母ちゃまの面倒をみるのは大変なのだから」五十年になるかしら、歯科医を続けてきて、台所のガスをつけたことも玄関の鍵を掛けて出かけるということもしたことがない祖母をいたわる由野でした。

 
 

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