アルゼンチンつれづれ(69) 1984年07月号
玉由ミニ独立
深い瑠璃色の矢車草が揺れ、竹の子も幾つ目かの皮を落すこのごろ。
矢車草、カラー、鳴子ゆり……父母の庭の草々の束を抱え“初めての外国”という所へ向けて船に乗った季節です。
まったく陸を見なくなって数日、枯れはててしまった父母の花を、航跡に投げ入れた日がありました。どうしてあんなに寂しいことを平気でやってのけられたのでしょう。あの時は。
“外国へ行って生活をする”とはどういうことか“これから先、日本へ帰るということがあるのか、それともないのだろうか”、それよりもまず“どうやって食べてゆくのか”そんな基本的なことにも考えが及ばない程の幼い心の持主だった自分を、今、日本の矢車草の季節の中で、切に切に思い起します。
「おや!まあ!」とびっくりの結果ばかりが取り巻いて、涙をこぼしながら、まごまごとアルゼンチンで生きてきたのが私でした。そして、船が出た日から十八年がたちました。
「今年の夏休みは、アメリカヘ行くことに決めていいかな。」と玉由は言いました。 夏休みの間中、すなわち三ヶ月間近く、ロスアンゼルスで、世界のトップインストラクターにつき、フィギュアスケートの練習をしてこようというのです。一人で着々と押し進めた計画に、私、母親の存在はまったく考えられてないようでありました。
玉由「出来ないかもしれないと思っているだけじゃ何も始まらない。とにかく出来るところまでやってみる、どうにも寂しくなっちゃったり、住みきれなかったら帰ってくればいいんだから。」
玉由「外国のスケート選手が日本に来ていた時、玉由が英語で話をしていたら、日本の友達がすごい顔して睨んでた、みんな英語で話すということ羨ましいんだね!ということを知ったから、積極的に英語を話して自信の持てるものにしてくるよ。」
玉由「自分を知らない人ばかりの所では、勇気を出して“新しい自分”“こんな風になりたい自分”を試してみられるから、そこのところが楽しみでもあるんだ。」
玉由「せっかく離れるんだから、特別のことがない限り一週間に一度の電話にするね。それ以上は必要ないよ。」
玉由「まあ、みていてよ、アメリカまでも行って無駄をしてくるようなバカじゃないから。」
玉由「いつも叱られているようなことは、きっとしないと思うよ。」
ロスアンゼルスは恐しい所といわれているし、人間として当然出来なければいけないあれこれも“大急ぎ”と時間に追われる生活で「一生出来ない訳でもないでしょう、そのうちなにがなんでもという時がくれば、自分で解決するでしょうし。」と希望的な判断で、その日その日をごまかし、ついつい私が助けを出し過ぎていて、「まだ何ヶ月間も一人に出来るように育ててなかったなあ。こういうことは、もっと先のことかと思っていたのに。」と引き止めなければいけない気持も働いてしまうけれど。
“ここのところはこうして、あそこをこのように”と計算された目的を持って、十三才の玉由は私からミニ独立を宣言しました。
生まれた時から、唯一の対等の話相手であって、常に私の保護者のごとく、見守り、庇い続けてくれた。本当に玉由に甘えて生きてきたと思い至ります。
玉由にも私にも、自分の人生を自分流に作るための競争の夏休みがやってきます。
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