アルゼンチンつれづれ(70) 1984年08月号
工場作り
アルゼンチンから出かけてきたセニョールディベイロと、ブラジルでのしごと終えた子供達の父親であるセニョールヨシヒコが、マイアミの飛行場で待ち合わせて、それからは一緒にロスアンゼルスへと飛び、スケートの練習中の玉由が“いかなる場所で、いかなる日々を過しているか”を見とどけ、「せめて夕食ぐらいは一緒にしようと思ったのに『これから練習』と、わざわざ地球の単位で逢いに行ったのに、たった十分程しか逢ってくれなかった。」とブツブツ文句のかたまりみたいになって日本へ到着致しました。
アルゼンチンで、みっともなくないように暮しながら、時には日本へ『おすし』を食べに帰れるように、とごくたわいない目標ではありましたけれど、今までの私の人生の中であんなに身も心も一つのことに集中出来たことがあった、ということが貴重で且つ懐かしく思い出される『工場作り』が一段落し、子供に係わるようになった私と入れ代わりみたいなことで、本当の大人のアルゼンチン人、セニョールディベイロが我会社に入社致しました。そして十年が経過。
工場をまかせているのは、私のように日本からアルゼンチンへ流れ着いて、日本語とつたないスペイン語をあやつる浜松男児。
営業を担当するのは、あんな美男子に売り込まれれば、つい商談もまとまるでしょうと、アルゼンチン男児。
よろず受け承ってまうのは、器用なアルゼンチン生まれの日系男児。
事務をするアルゼンチン人のギョロ目の女の子。新米あり、古ダヌキあり……。製造、販売、輸入、輸出等の仕事に携わるさまざまな性格の集まりのアルゼンチン事務所の主として、ヨーロッパ、北米、南米、といっ時もじっとしていられないセニョールヨシヒコを絶大にカバーしてやまないのがセニョールディベイロなのです。
我家近辺は昔より品川の宿(しゅく)であり、今日に至っても宿(やど)るにこと欠かない数のホテルがひしめいている地、その中の一部屋を日本でのセニョールディベイロの住居と決め、彼が日本を知る二週間が始まりました。
ディベイロ「毎日、電話、テレックスとおびただしい連絡をし合う東京事務所を見たから、これからは楽に仕事が出来る。想像も出来ない所と話をするのもおかしなことだったからね。」
デパートでは真剣に客に接する売子に感激し、アルゼンチンでは、“売ってやる”という売手ばかりですから。地下食料品売場で、試食させてくれるのが面白がってセニョールディベイロ、タクアンから刺身…お茶まで、次から次へ。その夜はとうとう何も食べられませんでした。
ビルの高さは四十四階、地下に深く潜ってもとにかく世界中より集められた食物、品物に溢れ、世界一高い値段をつける。
上野の美術館、博物館、弁天様、屋台でのあれこれ。秋葉原の電気器はもちろん。
今まで、日本と仕事をしてきたキャリアでもっても想像を絶したのが原宿であると。理解し得ない風変りな人種がカッポし、その町に明治神宮のおごそかさがまた異様であって東京は言うに及ばず、どこまでもとぎれることなく店が並び、とぎれることなく人がいて。「何もかもとぎれることがない。」と。
さて、想像通りとなるのではないかな、京都、奈良への旅。美術の辺りに興味を示すことに非常な照れを示すセニョールヨシヒコは『鹿にせんべいをあげにゆく』という口実を見付け出し、スペイン語の熟年二人、旅行カバンの中身はただ『せんべい』を満して、新幹線に乗ってゆきました。
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