アルゼンチンつれづれ(97) 1986年11月号

アメリカへ引越し

 「引越そうかなって思っているの」「どこへ?」「ロスアンゼルスの郊外」「どうしてまた?」「玉由がスケートするにはロスアンゼルスがいいって言うから」……と友人と話している自分の言葉に唖然としてしまう。
国を変えてまでの引越の原因が“たかだか子供にスケートをさせる”ということであったなんて!人間、こんなことで世を計って生きてても良いもんだろうか。私とて、大きな疑問の持主ではあるけれど、それには、おかまいなしに着々と引っ越すべき様相は濃厚となり、あまり使わない物から……とダンボールに詰め始めた。そのぎっしり詰ったダンボールが七つ八つ……と増え続け、小さなマンションの一部屋を埋め尽すほど。
 仮に住んでいたにもかかわらず、スーツケース二つから始めた日本での生活が四年で身動き取れない程にふくれあがり。その物々を置いてゆく場所もなく、処分なんて出来る訳ないし、アメリカに着けば、たちまちその日から不自由をするわけで、世の東西古今、物を移動させるというのが文明と見うけるからこの際、超発達した輸送システム、コンテナーに我全部を詰め込んで、日本の生活をそっくりアメリカに運び込んでしまおう。
 仮住いだからと、端折って生活してしまったことが多かった日本での生活だったけれど外国に住むともなると日本の食器など「やっぱり欲しい」と思う。日本を偲んで暮せるように、またまたダンボールが増えた。
 日本が詰まったコンテナーを運び込むべきアメリカの家は、現在、玉由がホームリンクにしているスケート場に近い家を「ハカランダが咲く家だから、きっとお母さん気に入るよ」と玉由が探したもので、先月私の訪米の折、借りる約束をしてきました。
 一番下のガレージから数え、一番上の星を見ながら入れるバス付の寝室までの四階建です。この階段を、由野がよろこんでかけ登るだろうと思いました。快適な住いになるはずです。家賃を換算すると、代々木の小さなヒステリックなマンションと同じとなりました。何を基準に生活水準なんてことが定められるのか知りませんけれど、こと私の住に関しては、日本の生活はしんどかったこと。
 アメリカヘ行って、子供達の足を引っぱらないように、最後の日本をフル活用しています。まず自動車の運転、毎日自動車学校に通い意地の蹴落しの部分が多分にある日本式の教えにも、このさい従って、なんとか車を動かせるようになりました。
 英語を話す国へ、英語なしで行く失礼をさけるため、英会話の学校へ通っています。一足先に、アメリカの先生方から、アメリカを教わりつつ。
 日本有数のお医者様と生長した兄に、乳癌ではないという診断をもらいました。「もうどこも悪いところはない」とすっかり自信の持てる身体にしてもらいました。
 身内に、他人様に、最後の追込みとばかり甘え、私のアメリカ行の財産を増やしています。
 日本人のくせに。たいした用事があるわけでもないのに。堂々と立派に世渡り上手でもないのによくまあ。大胆にも、またまた外国生活をしてみます。
 そして“日本へ帰る”という何にも増して大きな楽しみが増え、“遠くの方から憧れ、欲している”というのが私に合っているみたい。そういう生活に慣れ過ぎてしまったんだなあ。

 
 

Copyright (C)2002 Yuri Imaizumi All Rights Reserved. このページに掲載されている短歌・絵画の無断掲載を禁じます。