アルゼンチンつれづれ(99) 1987年新年号

カリフォルニアに住む

 地肌が大きく見え、コロンコロンとしか木が生えてない山々に囲まれた町。初めてこの地に来て、この山を見た時は、「地球上にはいろいろな所があるなあ!」と思っただけだったのに、自分が住もうと決めた時、この山肌は、大きなショックとなりました。そして今は毎朝々々、カーテンを開けるとカリフォルニアの素晴らしい天気の日々がこの山々から始まるのです。デズニープロダクション、ワーナー、コロンビア……と映画関係、大きな馬場があり馬関係の人々が多く住む小じんまりとして清潔な緑豊かな町。アメリカの人達は、半砂漠に水を注いでオアシスを作ったのでした。その出来上った所ヘチョコンと入り込んで図々しいですね私。
 大きなスーツケースを九個も持ってロスアンゼルス飛行場に降りると、アルゼンチンからの子たちの父親が迎えてくれました。そして後は力仕事の連続、電気の配線等に彼は大活躍をしていると思いきや、「俺は仕事があるから」とブラジルへ向けて、たちまちに行ってしまい、あれよ、あれよ………。
 車社会、車に乗らない人を受けつけない国で、私達女子供三人の車無し生活が始まりました。私の我儘で引越ししたことなんだから、何だって解決するより仕方がない。
 玉由のスケートは歩いて行かれる、我家の食堂の窓からのぞいているとスケート場に入ってゆく彼女が見えるから安心。
 由野の学校!おとなしい由野がアメリカに合わないんじゃないか、と胸が痛くなっていたのだけれど始めなければ。スチューデントビザを下さった学校まで歩いて十分程。家々の木々、花々、リスが横切る、犬も馬も猫も横切る………プラタナスの落葉を踏んで大きな学校に着くと、由野の受け持ちの先生が体温を伝えるように温かく温かく迎えてくれました。何の不安気もなく教室へ入ってゆく由野。うまくゆきますようにと祈りたい。
 「お友達出来ちゃった!皆いい子。一緒にランチ食べたの」弾んだ由野の帰宅の声に、アメリカがパッと明るくなった。
 さて次の難題は体操行。ジムの場所もコーチとも前もって話し合いは出来ているのですが、歩いても、走っても行き着かれないハィウェーを走って二十五分くらいの所。何とか送り届ける義務感、弱音を吐きたくない私の必至の策。
 ロスアンゼルスで発行されている日本語新聞に「“何でも屋”があるんだって」なんて面白く見たことを思い出し、恥も外聞も返上、電話をしてみました。日本語の人だったから上手に説明できて由野の体操の送り迎えを、「やってみましょう、何でも屋ですから」ということで成立。「どんな車が来てくれるかしらね」と仕度の出来た由野と待ちました。引越し用のデカイ中古のバンが我家に横付けされた時には魂げた。「何でもいい、安全に行かれれば!」私は「よいこらしょ」と乗る助手席に、由野は、代々木の時の部屋ほどもある大きなスペースに座蒲団を敷いてチョコン。
 やがて、鉄が部厚い感じの戦車みたいなのがハィウェーをぶっとばし、由野が後ろでころがっているのがわかりました。滑稽やら物悲しいやら。私が車でアメリカを走れる日まで、由野我慢してね。無事着けたジムにて、またまた由野とコーチの温ったかい出逢いを見ました。何の役にも立ったことがないアメリカでこんなに親切に受け入れてもらえてアメリカの偉大さを思います。

 
 

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