アルゼンチンつれづれ(100) 1987年02月号

カリフォルニアの運転免許

 今までの半分の時間で食パンが焼け、たちまち黒焦げ、煙が上る。洗濯機も勢いがいい。冷蔵庫だって、日本に居た時より開けた時の空気がずっと冷たい。
 普通、日本用の電気製品をアメリカまで持って来て使おうとはしないものなのだけれどコンデンサを作った経験上、どんな電気製品も容量が大きく作ってあるさ!という楽天的発想で、120Vのアメリカの差し込みに突っ込んでしまっているわけで……。
 「アメリカヘ来たら皆張り切っちゃって」そんな電気製品に刺激された訳でもないでしょうけれど、由野が俄然勢いが良くなった。 今更ながら外国で生れ育ったということが子供達の身体に大きく大きく入り込んでいることを思うのです。私にとって、日本に居ることは、ある面では非常に楽だから、子供達も私と同じだろうと思っていたのが大間違いだったみたい。地球上に線を引っぱったことで、言葉が違うのがとても不思議に思える程、アルファベットを使うこと、習慣も人種も…。気質とか気侯風土による多少の違いは認めるけれど同じ宗教であることも、アルゼンチンとアメリカと……。子供達にとって日本が一番外国だったみたい。生まれた時から付き合っていて子供達を理解出来ていると思っていたのに、かなり動揺する発見でした。
 「一番感じる年齢の時、日本へ連れてってくれたから日本人になれた気がする。お母さんの育った所やまわりの人達に逢えたから、お母さんと同じだけ日本のことが思えるようになった。日本に住めて良かった。アメリカへ来て、日本って懐かしいね」玉由のセリフです。
 さりげなく、すんなりとアメリカに入り込んだ子供達と違い、私の方は“エライコッチャ”の雰囲気濃厚。“何が何だか良くわからない”という経験は、今に始まったことではないので、その辺は落ち着いているのだけれど私の出来ることはほんのチョッピリ。日本に居ると一応何でも出来なけれいけないし、人並以上に何かをこなすことは難しいことだし……とプレッシャーがかかり大変落ち込んだのに、アメリカに来てこれだけ何にも出来ないともう気楽。少しずつ出来ることを増やしていけばよいのだから。
一番初めに出来るようになるよう挑戦したことは車の運転です。カリフォルニア州の運転免許のぺーパーテストを受けに行きました。英語とスペイン語の問題があったのですが、英語の国へ来たのだからと“英語でやります”と言って渡された紙は、さあ大変、裏表ぎっしり英語が書かれていて、学生時代以来のこと、読むのすらしんどい。時間制限はなく、行った順に適当に解くのですが、私のまわりの人達が三回程入れ変るくらい、その紙っ切れと取り組みました。“落ちたら子供達にカッコ悪いな、スペイン語の方にすればよかった”など思いつつ。
 書き終えるとすぐ採点をしてくれて“ユーアーパス”。アメリカの関門を一つ抜けた。 実技の方は、日本の様な教習所はなく、いきなり公道です。テストももちろん本当の道路。予期せぬ出来事の連続、いつまでも、どこまでも私の神経がゆき届きますように。
 街中が豆電気で飾られ、浮き浮きと厳かさが同居しているクリスマスの街を、フィリピン出身の試験官が私の担当でした。フィリピンのスペイン語とアルゼンチンのスペイン語でテストはおこなわれ、一九八六年度の内に私は“カリフォニア州を走ってよろしい”という許可をいただけました。さあ、これからが大変。

 
 

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