アルゼンチンつれづれ(110) 1987年12月号

カリフォルニア・ドライブ

 走行距離0mの車を受け取りに行った日のことが思われます。道も良くわからなかったし、スピードも恐い、「もう仕様がない」と開き直って神風特攻隊といえば失礼に当るかしら、自分としては、なかば神懸り的な気持でした。
 そんな大それた気持の日から十ヶ月間、毎日毎日アメリカを走った距離が二万マイル強、すなわち三万三千キロ程にもなっていることにはたと気付きました。
 三万三千キロといえば日本列島が十一個分。小さな日本列島と言えども、十一個も重ねれば地球を一周出来る距離に近づく。「えらいこっちゃ」よもや私が、そんなすごいことをしているなんて。「車を運転することはない」と決めて人生半ば、自分の我儘を押し通すためにやむなく始めたことが、そんな数字になってゆくなどと。
 今までに、日本とアルゼンチンの往復を二十数回かな、もう数えてもいないけれど、ということは、地球を二十何回も廻っていることになるのだけれど、人に頼らず、自分の運転で、ただただ地図を頼りに0からの挑戦で、地球一回りに近づく。何も出来ない、ささやかな人間と自分を謙遜ばかりしていなくても、ひょっとしたら、もっとすごいことしようと望んでもいいんではないか、なんてこのところちょっと考えが狂っている。
 アメリカを車で走ると決めた時、まわりが中古車をすすめた「どうせ始めは、あちこち打ち付けるから、まず古で慣れて」というのですが、この物指しは気に入らなかった。母が「人のお古なんぞ使うものではない」と言って私を育てたから、というのが私の言い分で……。今も新車の時のまま。かすり傷一つない。何しろ私のアメリカは、我車のフロントガラス、バック、サイドミラーを通して見知ってゆくのだから、よく見えるようにいつでもピッカピカ。
 始めてのLAエアポート行。すごいスピードで走らなければいけないから、横文字地名を読んでいたんでは対処がおくれる、躊躇なし、ああ神経!運を天に!
嵐の夜、由野を迎に行かなければならなかった日の決意。
玉由のスケートの試合が幾つも山を越えた向うにあった時、早朝、昼間、夜中と時間を選ばず何往復もしました。そして結果が「彼女本来の出来ではなかった」ということで「命がけで連れてったのに、ろくなことしなかった」と大喧嘩。見知らぬ遠くまで連れて行かなければ!というプレッシャーは大きかったのです。でもこれが一つのステップとなって、あそこに比べれば近いもんだ!何でもない!と運転のレベルを一段上げました。
 ビバリーヒルズにチリ人の友人がいて、そこを訪ねるのに、コールドウォーターキャニオンという道を行きます。キャニオンとは峡谷山中の道、イロハ坂みたいなのを始めて行った時は、私の後ろにすごい車の行列が出来てしまって…焦り、冷汗。一車線しかなく、どんなカーブか、どっちの方向へどの程度の坂か…この道は二度といや、と思ったけれど、なんのその、今では決して他人に迷惑をかけないスピードでこのキャニオンを通り抜けます。
 フリーウェーを走ってゆくとコンニャクも納豆も、日本の物が何でも買えるのですが、命掛けでコンニャクを買いに行くか、行かないか。今に至ってもコンニャクをあきらめることは多いのです。本当に出かける必要があるか!それ程でもないか!この決断は日に何回となく。そして出動と決めると、道程をすっかりイメージして、慎重に、地球を単位に。

 
 

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