アルゼンチンつれづれ(112) 1988年03月号

アルゼンチン・ブラジルへ

 「そういえば、子供達、もうしばらくアルゼンチンヘ帰ってないような気がするけれど」「玉由は二年半、三年近く行ってないよ」「由野は、日本へ行ってから一度も。」「え!まさか、五年も帰ってないということ!」私自身は、住んでいた時の続きがアレコレあるので時々は帰っているからそんな気がしなかったのだけれど……。
 「じゃ、この冬休みは、アルゼンチン、ブラジルヘ行こう。」
 年末、年始、冬休み中ということで「どの飛行機も満席」と、あちらもこちらも断られ、それでもめげずに電話を掛け続けたら「ゴザイマス」という旅行社があり、たちまち飛行機の中の人。冬のロスアンゼルスから、マイアミ、リオデジャネイロと二十時間近くかかり、夕立が降り終ったばかりの蒸し暑いサンパウロに降り立ちました。
 子供達の父親は、いとも簡単そうに、どこへでも現われるけれど「遠いことって大変。」と身をもって思う。
 子供達の記憶に残る時期に、サンパウロでの一応の観光は終えているので、今の興味は朝市。ブラジルの人達に混って、野菜、果物の種類の多いこと、新鮮、立派、価格が安い……。ドリアン、チリモジャ等々熱帯の果物がうれしい。小さな青実をつけたマンゴーの木の下で、どうしてこんなにずれたのかわからないまま、まっ赤に熟れた大きなマンゴーを買う。ムズムズする程うれしい。ブラジルの青果は、移住した日本の人達の指導で、ここまでになったのだと聞きます。こんなに日本がプラスとして現われている国に居るのは気持が楽。
 アメリカに居ると、自分の子供達が、日本人の子供として生まれてきたことが不憫に思えるようなことが多々あるのだから。
 夢中になって買ってしまった南国果実を食べる暇もなく、大きな袋に朝市の成果をずしりと携え、アルゼンチンヘ。
 過ぎて行った年月を思い起こさせてしまう程成長した子供達に、「まあ!こんなに大きくなって」「今、どこにいるの?」「いつアルゼンチンに帰ってくるの!」「アメリカと日本とアルゼンチンと、どこが一番好き?住み安いのは?」「このまま、ここに居なさいよ。」「はやく帰っていらっしゃい。」……
 まだ小さく、家の前の歩道を走ったり、マルガリータに手を引かれたり……ピョンコピョンコはねまわっていた子供達を覚えていてくれた近所の人達とのあいさつはつきません。ヨーロッパ系の街並と、それにふさわしい人達が身繕くろって醸し出す町の雰囲気。夜でも一人で歩いて大丈夫な散歩がてらのショッピング。夏の繁りの街路樹がさわやか。
 滞在した日数だけ、いろいろな家庭へ招かれました。クリスマスや大晦日と行事の日々だったから、祖父母の家、親の家へと、独立していった子供達が、その子供達を連れて集まるパーティの季節。底ぬけに明るく、絶大に美味しい数々の料理、上手なデコレーションの室内、そんな幸せの渦の中で、私達は歓迎されていました。
 一九八七年最後の夜から八八年に続いてゆく時刻、私達は、セリーナとその一族の集まりの中にいました。セリーナの一番親しい一家として。
子供達が吃驚仰天しました。今まで他国に住んで、年齢なりに得たイメージと、実際に入り込んだアルゼンチンとの違い。「お母さんの言うとうりのいい国だね。いつか、きっとこの国へ帰ってきたい。」

 
 

Copyright (C)2002 Yuri Imaizumi All Rights Reserved. このページに掲載されている短歌・絵画の無断掲載を禁じます。