アルゼンチンつれづれ(136) 1990年03月号

フランス語

 「南米は、政治も経済も変動が激しく、一つの国だけに頼っていると、たちまち飢えるようなことになる」という私達の経験からの発想で、幾つかの国と係わり合いを持つに至り、「お父さんは、飛行機に住んでいるの」と小さかった由野が言ったように、彼は宙に浮いている程に地球を飛び回る人となり、従って、私と子供達は「何処の国に居ても、どっちみちすぐ来てくれるのだから」と気易く玉由が十歳の時「外国で生まれても、日本人の子供だから、日本を知らなくてはいけない」と日本で生活を始めてしまった。
 日本では、日本を知るのと共に、英語を身につけさせたく、アメリカンスクールに通わせた。そして、玉由十二歳の夏休みに、「一人で英語で暮らせるかどうか」とニューヨーク郊外、カナダとの国境に近い所の「同年代のアメリカの子達と走ったり、泳いだりのキャンプに入れよう」と父親の思いつきでした。
 ニューヨークの飛行場で、日本から一人旅の玉由と、南米からの父親が逢い、そこからレンタカーで何時間もドライブし、目的のキャンプ場まで連れてゆき、彼はトンボ返りで南米へもどり、二週間たったらまた南米からキャンプまで迎えにゆき、“一人の経験”の褒美は、マイアミのディズニーワールド、という大変な飛行時間の割には、小さな大義名分のスケジュールをことなく決め、実行した彼に、私は“呆れ返った”のだけれど、このキャンプで、玉由はすっかり英語に自信をつけ、ネイテイブと変らなくなったのだから、男の発想を尊敬しよう。
 動き癖のついてしまった彼は、仕事の他にも「イタリアまでちょっとスパゲッティを食べに行ってくる」と本当に出かけてゆき、スパゲッティを一皿食べ終ると帰ってきたり、アルゼンチンが暑いから「涼みに」と気侯が反対のモンブランの麓までスキーに行ってみたり……いつも子供達を誘っても、「学校があるから」「ちょっと暇がないから」と断わられ続けていたけれど、この冬休みには、アメリカに来てから始めた“フランス語が通じるか、パリまで行こう”という誘いに由野がのり、たちまち二人で出掛けて行った。
 外国で生まれてしまった子供達が、私の範囲にいる間に、正しく使える言葉を四ヶ国語持たせてあげることが、私の子供達への責任だと思っていたから、英語が大丈夫と思えた時から「フランス語を!」と言い続け……パリヘ着いた由野からの電話で「どう!フランス語通じている?」「うん、何も困らないんだよ」「よかったね、学校で習っただけなのにもう通じるなんて!」「欲しい物があったらお父さんに買っていただいていいのよ」「うん、もう買ってもらっちゃったよ、フランスの雑誌、今読んだんだけど、良くわかる。もう一冊買ってもらっていいかな?」「由野がいなかったら、タクシーも困るし、レストランだって上手に注文出来ないのに、ちっとも、有り難がらないんだから、お父さんは……」「ヤレヤレ」。フランス語に対しての肩の荷が降りかけた。もっとも、私に関しては何語も重く伸し掛かっているままだけれど。「まあいいか!子供達の後から付いてゆけば」
 飛行機家族の飛び頭、彼は「飛行機に乗っている時が一番安まる」といいます。「電話が掛かってこないから」。でも先日、私が乗った飛行機には公衆電話が付いていて、隣りの人がコードレスで地上と話をしていた。願わくば、飛んでいる飛行機に電話が掛けられるような世になりませんように。

 
 

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