アルゼンチンつれづれ(137) 1990年04月号

言語ということ

 アルゼンチンに辿り着いた当時、もう二十四年も前のこと…その頃は、普通の人がウロチョロと地球を動き回るような風潮ではなかったから、アルゼンチンに移り住んでしまえば、しっかりと長年住み続ける訳けで…その長年住み込んだ日系の人達に逢って話をした時の驚きは忘れられない。
 聞いたことがなかった日本の単語が…たとえばブラジャーが乳バンドと言われていたし、また、彼等の間だけで通用する、スペイン語と日本語の合成語…スペイン語で“私”のことを“yo”という。そこで“私達”というところを“yo達”と言うような…こんなのが沢山会話に入っていると、何を言っているのかさっぱり分らなくて、そのうえ、スペイン語の単語が夥しく入り混り、アルゼンチンの人達にも、日本人にも、どちらにも通用しない言葉が話されていたことでした。もう一つ、親が日本語だけ、子供がスペイン語だけというコミュニケーションの仕方。子供達が生まれると“私と同じ日本語を話させる”ということに情熱を注いだ。子供達と私の会話の中にスペイン語が混じると“ビンタ”したし、家の中で子供達同士がスペイン語で話しても、何度もすっ飛ぶ程蹴飛ばしたりした。「アルゼンチンの遊びは、スペイン語じゃないと遊べない」と子供達は文句を言いましたが……。今時、日本語の中に何国語かも知れないカタカナが溢れているのだから、私の方がいけなかったのかなあ……とも思う。
 保守的な我家では、今でも私から知った日本語以外で玉由と由野が私に話し掛けることはない。
 善し悪しにつけ、現在進行形の言葉というのは、やはり日本に行かないことにはと、せっせと日本語、日本文化への旅を、アルゼンチンより繰り返すことになるのだけれど、日本に着くと、私は我然おしゃべりになってしまうのに、由野はほとんど一週間、彼女からの言葉が消える。何でもわかっているのに彼女は口を開かない。玉由は何事もなく「飛行機の中で、頭の中を日本語のカセットに入れ替えたから」と。そしてやっと由野が普通に日本語を話すようになると、またまたアルセンチンヘ帰ってゆく。
 この反対の時も「飛行機の中でスペイン語のカセットに、もうしたからね」という玉由と、アルゼンチンに着いて、アルゼンの友達が我家に溢れても、まず一週間は由野はものを言わない。「由野が何にも言わなくなった」とアルゼンチンの子供達が心配してくれましたっけ。
 こんなのは、児童心理学的に言えば“要注意”なのでしょうが、無知で通り抜けた。
 日本に住み始め、アメリカンスクールとはいえ、日本にある学校へ通った子供達は、大きなカルチャーショックを受けたようだ。今まで、祖父母、両親と限られた人と話していたのとは違う日本語がある、ということに。 ここでは、さすがの玉由も、入れ替えられるカセットが無く、しばらくものが言えなかったそうだ。
 そして、私が生涯使ったことが無い、人を冒濱したり、罵ったりする言葉を覚え、一人前の日本語使い、となっていったわけで、それにしても、私の育った環境には悪い言葉は一つも行き交ってはいなかった。私の方が言葉の範囲が狭いのかなあ。スペイン語でも英語でも、私は汚い言葉、悪い言葉を知らない。こんなに年を重ねてきたのに、温室言葉だけの自分がちょっぴり恥ずかしくなってきた。

 
 

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