アルゼンチンつれづれ(138) 1990年05月号

ランドセルの百合の花

 私の生れ育った家の玄関の方が医院であり、患者さんがいて看護婦さんがいて、薬が作られ、応対するのは私の父医師今泉忠男。
 家の奥の方では月に何度かアララギの歌人が集まって歌会が開かれ、歌誌三河アララギが発行されていた。主幹は私の父御津磯夫。 今泉忠男と御津磯夫の範囲の中で、あのことこのこと、見上げながら私の幼時がありました。
 私は父に“叱られた”ということがない。もっとも私だけではなく、父の六人の子供をただの一度も叱らず、抱かず、それぞれに合った生き方に導いたということは大変なマジックだと思う。私達子供に対してだけではなく、母に対しても、声を荒立てたり、苛立ったり、要するに喧嘩みたいなことを見たことがない。私が見たことがないだけではなく、本当に六十年間の母との生活で一度も。今、はじめて、先に逝ってしまったことを怒っているのだろうけれど。
 私は、他人に“あんな良い人”といわれる旦那様を持ちながら、喧嘩しかすることがないみたいに喧嘩ばかりしている。いつも、きっと私の方が無理を言っているのだろうけれど……。父と母に照らし合わせて、自分は本当に愚かだと思い至る。
 父が子供達を叱らないぶんだけ無関心だったかというと、そうではない。
 私が小学校に入学する時、まだ戦後の物資が豊かでない頃のこと故、ランドセルは白いズックだった。そのズックに父が診療の合間合間に、油絵具で百合の花と御津南部小学校の校章を描いてくださった。父の書斎を覗きにいった日々。百合が咲いている頃生まれ、百合程ではなかったから“由利”と名付いた私の心が父の子供である喜びに弾んだその時を、今もとてもよく覚えている。
 小学校時代の夏休みの間中、すぐ上の兄と弟と私の三人を毎朝六時に起し、海へ連れてゆき、泳ぎを教えてくれたのは父。ボートに乗り、沖の船まで泳いでゆき、波のある日、穏やかな日、夜中に往診があったのに、そんな様子は全然見せないで、父に平和に見守られた日々がありました。
 日本語を読むことも話すことも限られたアルゼンチンでの生活で、子供達と日本人の日本語でありたいと焦っていた私の戯れの歌擬きを、父が三河アララギに載せてしまった……。母が会費を払ってしまった……。短歌とは、父や母、父母の友人の先生方が作るものであって、私などが“とんでもない”と心から思っていたのに“一回きりでやめてしまった”というのではあまりに父母の大切な先生方に申し訳ない。ただそれだけの気持で、訳が分からないまま文字を連ねて日本の父母に送ることを続け続けてもう十五年になるかしら。今、短歌ということに係われたことをありがたいと思う。そして、父のように、母のように、命ある限り続けてゆきたいと思う。
私のことのみならず、六人の子供達が各々父母との心に残る数々を重ね、いよいよ父が八十八歳になる。小さかった時仰ぎ見ていたその時と同じように、今も仰ぎ見る距離は変らないけれど、父との思いをもっともっと重ねたい。
そしてもう一つ、私達の父というだけの存在ではなく、今泉姓の百人余に及んでいった一族の長として、今生まれたばかりの一族の赤ちゃんに至るまでの心の支えとなって、いつまでも、いつまでも。

 
 

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