アルゼンチンつれづれ(154) 1991年09月号

玉由のフィギュアスケート

 自分の子供という存在に付き合うにあたり『生まれてしまった』『大きくなってしまった』と後で気付くようにはしたくなかった。 日本人とはいえ、アルゼンチンで生まれたから、まずアルゼンチンを代表するようなスポーツ選手になってほしかった。どんな方向を向いても、子育てとは未知以外の何物でもなかったけれど、女の子だったから、華やかにフィギュアスケートを選び、そして始まった。
 大きな氷の広場を一人の“華”で満たすのだから、ひたすら美しく育たなければいけなかった。
 ペチャンコな身体にならないよう、生まれたての柔らかさを維持しつつ、その柔らかさに付きっきりで身体の形を整えた。努力は実を結び、顔が小さく見え、頭の形も良く、コロンと丸い身体の、どこもかしこも走り回る足の強い玉由がいた。
 毎日クラシックバレーに通った。体操に通った。そして、六歳の時の玉由は、アルゼンチン唯一の古ぼけた小さなスケートリンクのスターだった。
 氷の質、リンクの大きさに目覚め、“こうしてはいられない”と私は“アルゼンチンにオリンピックサイズのアイススケートリンクを作ろう”と、とてつもないことをいとも簡単に考えつき、アルゼンチン政府に土地の提供などを働きかけ、アメリカのリンク製作業者に見積りを出してもらったりしたけれど、とても個人の手におえるものではないことを知っただけ。そして、スケート靴を持ち、スケートリンクのある国、オリンピック級コーチを求めて旅をすることとなる。
 アメリカですべった。カナダですべらせた。日本でも……そして、日本に居たかった私を優先してしまって、日本で、日本の選手としてスケートを続けることとなる。
 私と同じ日本人に育てたつもりだったけれど、日本人としてだけ育ったわけではなかった玉由が、日本のあっちこっちに“コチン、コチン”とぶつかって、日本脱出を考えつくほど成長し、一人先にアメリカヘ行く。由野と私が後を追う。
 アメリカからも日本の選手であるべく、続きを試みるけれど、何度もある試合毎の飛行機旅行、時間、時差、練習方法……違い。どうしたって益々日本人離れしてゆく玉由の障害物ばかりの日本となり……。
それでは、アルゼンチン選手として、アルゼンチンにスケート連盟を作ろうと動き回り、働きかけたものの、大本のリンクが無いのだから連盟も作れず、世界スケート連盟に加入も出来ず。
 オリンピックなら一国の枠があるからと、権利を手に入れようと努めたら、玉由が「オリンピックとは、勝って勝って勝ち抜いてゆくものなんだ。そんなイージーなのはみっともない」と拒否。
 年齢と競争のスポーツなのに、ただ玉由の年が増えてゆく。目的が定められず、反抗、低抗ばかりの日が過ぎに過ぎた。それでも私はあきらめなかったら、玉由が気付いた。アルゼンチンで生れ、楽しい幸せな生活があった。心から支えてくれるアルゼンチンの友達もいっぱいいる。両親が始めて、続けてきている会社がある国。今、やっと「アルゼンチンを代表して冬期オリンピックにいきたい。何とか権利を手に入れて!」。“すわ”とアルゼンチンの友人達が大きく助けてくれ、着々と準備中。
どんな時も、玉由を見離さなかったアメリカのコーチと、偶然ではあったけれど、アルゼンチン人のトレーナーにめぐり合い、本当に近い所に巨大な目標が出来た玉由が、ひたすら練習にはげむ。

 
 

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