アルゼンチンつれづれ(162) 1992年05月号
スイスの由野の家
「生まれついてしまったハンディと戦わなけれぱならない人、飲むべき水を探し求めてなんて環境にいる人……目標に近付くことが出来たり、遠い失望だったり……切実な、どうしようもないものに向っている人達に比べたら、世界最高のイベント、世界の人のあこがれに挑戦してのことなんて、とってもとっても賛沢なことだったんだ、って気が付いたよ」と、玉由が、やっと正気な口を開いたのは、オリンピック選手村から脱出の頃。
競技や任務が終った人達が、三々五々、大荷物を車に積んだり、大きな国がチャーターしたバスに乗り込んでいるのが見うけられたけれど、私達アルゼンチンチームには、自力脱出しか方法はなかった。
何とか駅が近くにあるわけではなく、ジュネーブ方面へ直行バスがあるわけでもなく、大荷物を持って途方にくれていると、私のスペイン語を聞きつけた、フランス人でスペイン人の奥さんがいるというポランティアの人が、「今日は、僕の休暇だから、ジュネープまで車で送ってあげますよ」と。選手村から三時間のドライプを要する所にまで。
すぐ親切に甘え、フランスから国境を越え、スイスの由野の家の前まで送ってもらえた。「世界の人と話をしたり、親しくなることが好きだから」との言葉を残して、その人は、まだ続いているオリンピックに引返していった。
窓からはレマン湖が見えた。由野が家の主人。由野に逢うのがずいぶん久し振りになっていた。玉由のオリンピックにかまけ、由野を遠くに置いたまま。
「由野は大丈夫だから、玉由を見てあげて」「お母さん、玉由を一人にしてはいけないよ」と、いつも由野は国際電話で言ってくれていた。
「由野はいいよね、さっさと体操やめて、親からのプレッシャーから逃れられて」とは玉由。
「日本レストランヘ連れていって」「おかあさんが前によく作った肉ジャガ食べたい」「日本の食料品売ってる所があるんだよ」
スイスにて、日本風を作り出すということが由野を可愛がることと相なった。
日本屋でスキヤキ用の肉と糸コンニャクを買い、スイスマーケットで、ラクレッタ用というジャガイモを求め、玉葱は由野の台所で探し当てた。そして、出来上がった肉ジャガと、お鍋で炊いたカリフォルニア米のちょっとおこげご飯で、三人の張りつめていたものが解けていった。
どんな所にいるのかしら…、現実感のないまま、ロサンゼルスから、日本から、アルゼンチンから、この赤と白と黒でインテリアされた由野の部屋に電話したんだ。可愛い部屋に居てくれてよかった。
中華風が食べられないはずの由野の台所から、ピータンや中国のお箸、中華風調昧料などを見つけて、ぴっくり。
「台湾の友達がいるの。友達のおばあちゃんが“由野に”って、あれこれ作ってごちそうしてくださるの」「そうだ。お母さん、お礼状を書いてね」
見たことない靴やマフラー、セーターがあって、「友達が忘れていったのよ」「え!靴忘れていくの」
とにかく、友達がいっぱいいる様子。
そして、玉由が焼餅を焼いた。「よその人が由野と楽しく過ごしてて、まず玉由が由野と楽しく過ごす権利がある」「こんな遠くじゃなくて、せめてアメリカ大陸に帰っておいでよ」
由野取り戻し作戦にでた。私も、もっと由野のやさしさ、近くにいたい、と切に切に思う。
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