アルゼンチンつれづれ(163) 1992年06月号

どこへ行っても収まらない

 私の亡き母、今泉米子が、私の結婚相手の母親、高山福子さんに、「この子は何処へ行っても(嫁いでも)収まらないでしょうよ」と言いおいていた、ということを、最近福子さんより聞いた。
 明治生まれの、女の模範みたいな米子が、こんな大胆なことを言い切る人であったことにびっくりした。母とは、大人の心や、大人になってゆく話など一度もしたことがなかったような気がするのだけれど、よく見抜いていたんだな、と思う。
 私は、やけっぱちでもなく、やさしい心の持主だと自分では思っていたのに、世の所謂結婚というシステムに上手に乗れなくて、今でもまだ戸惑っている。
 「高山さん」と呼ばれても、足をバタつかせて“違う”と思う。
二十六年前、アルゼンチンヘ行くという発想に全て掻き消され、船に乗って地球を半周するという行動のみあった。
着いてしまえば、アルゼンチンに慣れなければいけない。職業ということを始め、そこから収入を得なければいけない。
他国で仕事を始めるということは、大変に難儀なことだったから、十分に集中して“職業”に向かってゆかれた。朝の星も、夜の星も、私達の仕事の時間の内にまたたいた。
気が付くと“仕事”は会社らしい様相を程し始め、玉由が生まれた。玉由を抱っこして会社に通った時もある。
玉由を「自分の“孫”」というセリーナがいて、名門セリーナ家の子守りが玉由に派遣されてきた。玉由は、たちまちアルゼンチンハイソサエティ風のスケジュールに育ってゆくこととなる。由野が生まれ、もちろん華やいで育っていった。
アルゼンチンの良い経験をさせ、ひたすら子供達を可愛がって、そして気付いた。
自分の力でもないのに立派に暮しすぎている。外国で生きてゆく人になるのだから、自分の力で自分を作ってゆく、という努力をさせなくてはと…、しんどさばかりを求めて、地球を移動することになる。
その子供達も、もう私の指令を必要としないで、自分で考え、自分で行動出来る。あとは、彼女等の一生を通じてのより良い職業のことを見守ってやればいい。
 そして、つらつら思うに、私はいったい何だったんだろう。
男の人は、ためらわず、生涯にと決めた仕事をしてゆけばいい。子供達は育ってゆけばいい。そして私は、家族をサポートしていればいい、という性格ではなかったことが困った。
家業ということに参加していたこと、子供を育てたこと……を否定するつもりも、今までしてきたことを消してしまおうとか……そういうことではないけれど。一段落したんだからもう自分に戻ってもいいのではないか。 ふと巡り合って急に名前や生活が変り、自分がなくなってしまう、なんて……。どうしてこんなことを平気でやってのけようとしたのだろう。自分の生れた名前で自分を考え、自分の力で自分の生活をし、社会に生きてゆきたい。
 “人にさせる”などということと違って、自分に立向かい、自分の限界を知ることは、大変怖いことだけれど、せっかく生まれた自分を自分にしてやれたら……。
 その時、やっと素直に四人家族の一員になれるような気がする。

 
 

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