アルゼンチンつれづれ(165) 1992年08月号

トイレット部長

 部屋にはタバコの煙が満ちていた。その中で、パイプをくゆらしていたのが「トイレット部長」(文芸春秋社刊)の藤島茂さんだった。藤島さんは、停車場課長として、駅の建物全般の改造をするにあたってのトイレット裏話を書かれたのがベストセラーになったということは存知あげていた。
 新橋駅近いビルの階段を沢山登った所での集まり、「四次元会」に、同じ学校の友人と一緒に初めて紛れこんだ時の私は、親元を離れて上京していた二十歳頃だった。
 そこには、小説を書き始めている人、名が知られている人、子供の写真を無闇に見せたがる人、有名人をよく話題にする人……その時までに私が知っていたのとはひどく違った人達が、言いたい放題を言って、煙を製造しているのが四次元の空間ということだった。 日本国有鉄道のパイオニアとして、かってフランスに留学をしておられた藤島さんが、「フランスでは、こうやってあいさつをするんですよ」と私の両頬にチュッチュッとキスをしてくださった。そして、「目白三平を知っていますか。今度逢いに行きましょう」とたちまち次に逢う日が決められた。
 飯田橋駅から神楽坂を登って左へ曲がったすぐの家の二階が「目白三平」こと中村武志さんの仕事部屋だった。
 焦茶の皮張りのソファー、チークのテーブル、ビュッフェの絵が掛かっていて、中村さん、藤島さん、私達学生二人の四人は、たちまち話がはずんで、これからたびたび会おうということになった。
 「沢庵のしっぽ」の著者の中村さんが、北欧風の部屋でブランデーを飲んでおられたのが印象深かった。
 帰りぎわに、藤鳥さんが、「ナイトキャップと言って、寝る前に飲むお酒ですよ」と、小さなグラスに注いでくださったのがコワントローだった。トロンと甘く、二十歳の舌に記憶した。今でも忘れられない。
 その後、神楽坂の夜は何度も重ねられ、私の東京での学生生活の大きな意味を持つ場所となっていった。
 中村さんの仕事部屋は、丸の内ホテルに移ったりしたのち、国鉄定年後は、中野の鍋屋横町に落着かれた。
 椎の木が家の真ん中をつらぬいているユニークな部屋で、ここでも幾度も鍋横の夜があった。
 その当時珍しかった中村さんの短縮電話に私の番号がインプットされ、銀座での食事やお酒に誘ってくださった。
 色々話し続ける私に、中村さんは、聞いているとも、面白いともなく、いつも同じポーズでピースを吸っていた。
 学生生活を終えると、今度は「外国」で生活してみたいと思い込んだから、たちまちアルゼンチンヘ行くことに決ってしまった。
 自分の意志で行くのだから、行ったということをみじめにするわけにはいかなかった。そして、私なりの出来る限りの「外国」の日々が今日まで二十何年間も過ぎてしまった。 その間、神楽坂も、鍋屋横丁も思い出となってしまっていたけれど、風のたよりに、藤島さんの亡くなられたことも、中村さんの消息も知った。
 私の本が出来て中村さんにお送りしたら、折返し最近の作が送られてきた。
 日本に帰ってきた時、中村さんに、私の本を読んでくださってありがとう、と電話をしたら、以前のままの変らない中村さんの声がして、そしてまた始まってしまった。

 
 

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