アルゼンチンつれづれ(186) 1994年05月号

絵を描きたい

 “春になってきて…日本の風土から生えてくる野の草々の絵を描きたい”まだコートを着ていた今年の寒さに、“春の芽生えはもう少し先”と安心していた。
 “あ! 蕗の薹がでてきてしまた”マーケットの野菜売場で見つけた。“たらの芽もトレイに並べられて”…温室で育てたんだ、きっと。自然に生えるにはちょっと早いもの。 手軽に手に入れられることを喜び、友達を呼んで、春の芽テンプラパーティをくり返している間に、私の利用する大井町線や目蒲線の線路の土手に蕗の薹が見えはじめ、“少し伸びた”“小さな丸葉もみえてきて”“すっかり薹になってしまった”“葉が大きさを増してゆく”ずっと育ってゆく様子を追って描きたかったのに、土手にはちゃんと金網が張ってあり、近寄って取ったり、絵を描いたり出来ないまま“ああ、過ぎていってしまう”。
 椿咲く。蕾を一枝いただいて、だんだん蕾がふくらんできて、“さあ、今日は花が描ける”こういう時に限って用事が出来て外出する。帰ってみると、花はポトリと音をたてただろう、床におちていて。“あ、まだ描いてなかったのに…”
東京の私の住んでいる辺りは、草々収集にとても困る。垣根越しに見る他人の庭、ひと花いただいて自分の机に持ってくるわけにはゆかない。人々の庭はかろうじて土が残るらしいけれど、庭以外はどこもかしこもコンクリトで覆われ、一本の草も見あたらない。近くの洗足池まで出かけても、歩く道が出来ており、生えている草には名札が立って、ちょっと引っこ抜いてくるわけにはいかない。思いあまって花屋へ行っても、季節とは関係なく、しっかり形造られた立派な花ばかりで、買って帰ってスケッチしたいということにはなかなかならない。
コンクリートの上であせりまくっている間に、さっさと花咲き、花散り…“あ、また来年まで待たなければならない”。
桜が、これまた大変。いつか花満ちる大木を描きたいけれど、今は蕾から花咲いてゆくことをしっかり見つめたい。
 一枝何とか手に入れようと、桜が咲く辺りに出かけてゆくと、歩ける足元もないほどの人連が地面を陣収り、太鼓たたいたり、まだまだ月が出る時刻でもないのに“月が出た出た”とかカラオケという音もすさまじい。そのうえ、オデンやヤキソバと食べ物の匂い、お酒の匂いが充満して、そんな人込みの中、ひと枝をドロボーすることも出来ず、散り始めている花弁を拾ったり、風に折れたひと房など見っけたらもう有順天。
 踊る人も、花弁を拾う人も、共に桜に良い気持にしてもらって。
 持ち帰った染井吉野のひと房が、私の机の上で、水を得てピンと張る。一つ残っていた蕾がうれしい。この大切な蕾が開かないうちに描かなければ。部屋の暖かさで、たちまち丸味をおびてきて…とうとう咲いてしまった。そしてたちまち私の机の上に桜の花弁は散る。散った花弁に走っている脈やデコボコなんかはルーぺを持ちだしてきて、しっかりスケッチしているつもりなのに、“まだ見えていなかった”と気付くことがいっぱい。
 目の前に置き、ルーぺすら使って、それでもこんなに見えないのだから、はっきり見えるものではない心を文字に託す短歌に思いは至る。もっともっと心に近付いた言葉を使いたい。幾枚ばかりの桜の花弁の散る部屋で。

 
 

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