アルゼンチンつれづれ(199) 1995年06月号
染井吉野
その昔。私が小学校に入学するという日、これから通う学校の校庭で、まろまろ軽やかに、空も地も学校も、辺り一面を桜色にしてしまっている淡い花びらに夢中になってしまっていた。自分自身の目と心とで桜を見た初めての日、桜への私の原風景といつも蘇る。 それから後二十数年間、桜と年を重ねたとはいえ、長い外国生活を始めてしまい、日本のようには桜の咲かない国で、桜への憧れを凝縮していた。開花宣言とか桜前線とかのニュースが聞えてくる。桜と一言に言っても、何百種類もあるというのに、とにかく染井吉野。
江戸時代末期、江戸染井村の植木屋がエドヒガンザクラとオオシマザクラから作り出したとか、自然雑種だとか言われつつ、染井発の桜は忽ち日本を覆い尽くしてしまった。
江戸染井村とはいったい何処にあるのかと地図を広げて見る限り、『染井』の名が残っているのは染井霊園だけ。「ちと面白くなった」。染井霊園とは、貫名海屋に連なる貫名家のお墓があり、母のお供をしたことが何度もある。私の日本定住花見始めは染井霊園と決め、“頃は良く”母をお墓参りに誘った。 両手を合わせる母の肩に花弁は散り、両手を広げる私に花弁は降り、静かにしっくり、思いを込めて染井吉野と過ごすことが出来た。
隅田川堤に桜が咲くと聞けば出掛けてゆき、朝の様、昼も夜中も、蕾が開いてゆくのがはっきり見定められるほどの時をかけて眺めていた。桜に集まってくる人たちも、桜など見るか見ないか酒盛に夢中の人たちも、屋形船も三三五五と様々、隅田川にとても似合っていて、得も言われず良い。
“千鳥ヶ淵がすごい”とまたまた出掛けてゆく。明るい時も暗い時も桜の中にいた。皇居の土手から桜は乗りだして咲き、この世は正に桜しかない。散り始めた花弁は、お濠の水に何事かと思うほど大量の花弁の吹き溜りを作り、この世のこととも思われない心地。 多摩川土手にも桜は咲いて、桜の木の下から巨人軍の練習風景を見ていた。坐っていても間近に花咲く枝は伸びてきて、桜の花越しの見物。
私の部屋の窓から、日蓮上人が足をお洗いになったといわれる洗足池の桜が、家々の屋根越しに棚引いて見える。桜色は少し赤さを増したかな! 花弁が散ってゆき、花茎の色が見え出したんだ。朝ごとに緑色は増えてきて、今年は、もう終りなんだ……。
どうしても終りたくなくて、そして気づいた。北のほうへ行けばよい。追い掛けてみよう。東京駅からいつも父の家へ行く山陽新幹線のホーム一つ隔てた反対方向、東北新幹線に乗った。目指すは福島県三春町。阿武隈山地の日本最大のベニシダレザクラ。千年もの年を咲き続けてきたという三春の殿様の桜。 桜の葉が繁ってしまった東京を発ってまもなく、窓は桜が咲いている風景と変った。一時間半ほど走って郡山に着くと、まだ蕾が多い染井吉野だった。
三春町へは、乗合いバスに乗ってしばらく行くのだけれど、道中の景色は驚きの声も出ない。まさに梅と桜と桃の花が咲いていて、その上、三つの春どころではない、百とも千とも、知る限りの春の花々に満ちた春という世界にタイムスリップしてしまった。同じ三春の中でも、石段を登ってゆくと桜はまだ硬い蕾。緯度、高度、桜はかくも敏感なのだった。
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