アルゼンチンつれづれ(200) 1995年07月号

ジョン万次郎

 ジョン万次郎の孫、中浜糸子所有であった翡翠の帯留めが私の所にある。なぜ私の物となったのか!買ってきたのではなく、伝えられてきたのである。
 中浜糸子は、九州大学法医学の大家高山正夫博士と結婚、高山糸子となった。高山家の娘繁子は、天皇家御用牧場の場長であった坂常三郎と結婚。そして、後に私の母となる坂福子が丙午の年に生まれた。
 糸子は器量良しで、賢い福子をこよなく慈しんだ。福子は、やがて信州で土屋文明に教わる機会に恵まれ、丙午ということだけではなく、文明の先覚の徒として歯科医師となり、六十年近い診療の人生を送ることになるのである。その間、貫名海屋の続き、貫名泰比古と結婚。貫名福子となる。けれども、糸子の采配で、福子の母方に夫婦で養子となり、高山福子として現在に至る。
 福子は、患者から大変に信頼が厚く、全てを包み込んで微笑んでいる人のようにみえるけれど、どうしてどうして、気に入らないことは沢山あり、利かん気、我武者羅、茶目っ気…おとなしく貞淑みたいなのは歯痒いと思う人だから、並というところからすっかり掛け離れてしまった私の最高の理解者で、私のどんな企みも「やりなさい」と応援団長をしてくれる。今、日本で霞のごとく生きているばかりの私がもどかしいらしいけれど…。
 翡翠を見ながら思う。私の二人の子供達に伝え渡す前に、少しはまともな私自身の歴史も加えてあげなくては!と。
 田園調布から雑司ヶ谷霊園へ行くのは楽しみなことがいろいろある。まず東横線で渋谷へ。山手線に乗り変え大塚まで。大塚から東京都内唯一残されている都電荒川線に乗る。いわゆるチンチン電車で、三の輪から早稲田の面影橋までを走っている。小説なんぞで読んだことのある駅名が続き、家々近く走るから、東京の下町の日常を見つつ行くのは何ともうれしい。いつまでも乗っていたいけれど、すぐ雑司ヶ谷。降りるとそこはもう霊園。 確実に跡形を残された方々が時代をゴチャゴチャと交差して眠っておられる。夏目漱石、竹久夢二、サトーハチロー…。「ここにいらしたのですか!」。その人々の知る限りに思いをめぐらす。何とも妙な気持になりつつも、その時々の木草は快い。道草をしながら歩いてゆくと、東郷青児の隣に、ジョン万次郎の立派なお墓があり、「立派なことをされたのだな」と思う。
 お榊を変え、お参りが済むと、「鬼子母神へ寄ってゆきましょう」と、方向だけは定め気に入った小道を道草しながら歩いてゆく。 大銀杏が目印の鬼子母神では、「私は、子供達をうまく育ててあげたんだろうか」などと子供に関する反省などしてみたり。境内の店では薄みみずくを売っていて、今いちど幼きものを抱いてみたい気にさせられたり。
 立派な欅並木を通って、目白通りへ突き当たる。丁度そこに一階は魚屋、二階が和風レストランの「いり江」があり、ここの刺身定食がそれはそれはおいしい。私の行った日のおみそ汁の具は独活でした。身も心も満たされる一日となったものでした。

 
 

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