アルゼンチンつれづれ(201) 1995年08月号

セリーナ・アラウス・ペラルタラモス de ピロバーノ

 受話器を取るとまず「ピー」と信号音があり、「あ!外国から」。そうだった。アルゼンチンのセリーナの声である。「YURI!どうしている。皆元気?YURIが日本へいってしまってから描いている絵が溜ったから、八十歳の記念の個展をすることにしたの。パーティをするから来て欲しいんだけれど」「行くよ、行くよ」と私。飛行機アレルギーだなんて言ってはいられない。
 アルゼンチンに着いて、何にもわからず、涙を流しているより術のなかったそんな頃、セリーナと出逢った。
 涙を流しているばかりでは始まらない。何とかアルゼンチンに住まなければ……学生時代よりのテキスタイルデザイン画を持って、紹介されたセリーナのアトリエヘ行った。
 言葉としては、ほとんど何も通じ合えなかったけれど、雰囲気や服装の趣味は……お互い自分の範囲の人であるという確かなものを感じてしまった。後からわかったことなのだけれど、セリーナと私と誕生日が一日しか違わない。日付変更線とか、時差とか、そんなことがあるから、ひょっとすると同じ日なのかもしれない。こんなことは、何でもない偶然だろうけれど、とても共通した性格をしている。
 私の母から地球の一番遠い所へ出かけて行ったように、セリーナからも今は一番遠い所に来てしまっている。私は、甘えたい所からすぐ逃げだすんだ。
 セリーナは、アルゼンチンの誰でもが知っているような名家に生まれ、莫大な財産を相続し、そして、ぐうたらしていたのではない。
 看護婦としてアルゼンチンのトップにまで達し、国を代表して世界各地での看護学会に出席した経歴を持っている。
 「結婚というシステムは嫌い」という意見が一致したアルゼンチンの有名な建築家、リカルド・ピロバーノと結婚をし、もう一つ有名な苗字を加えた。リカルドより建築のこと、建築に伴う室内装飾のセンスをみがいた。 リカルドは、世界一の金持ちのオナシスとも親交があり、セリーナの持てなしで何度も食事に招いたことがあり、また、ギリシャのオナシスの家にも招かれて行ったことも…。 セリーナ家には、マスカット好きのリカルドの為に、マスカットをむくだけの係の使用人とか、銀みがき、リカルド付、セリーナ付、掃除やコックは当り前、分けられるすべての部の係りの使用人がいた。
 私がアルゼンチンに着く一年前に、リカルドは交通事故で亡くなってしまい、セリーナはリカルドを継いで室内装飾家として活躍していた。
 セリーナと私は、出逢ったとたんに肉親になってしまい、セリーナは、YURIのために笑い、YURIのために涙を流し、YURIのことなら何でもする……と大変な可愛がりようで、私は、そんな愛されかたの経験がなかったから、ただ、しっかりと見定めていたばかり。私に、大変な生活を味あわせてくれた。
 玉由と由野がアルゼンチンの国籍を持って生まれると、セリーナの祖父が創始者であるアルゼンチン一の避暑地、マル・デル・プラタの海が見える土地をプレゼントして下さった。これは、玉由と由野の心の真中となっている。
 玉由が言う。「地球の一番遠い所に、まったく違う育ち方をして、もちろん人種的、民族的共通はなく、ふと出逢っただけで、どうしてこんなにも思い合えるんだろう。だけど、セリーナに出逢えたから生きてこられたね」

 
 

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