アルゼンチンつれづれ(203) 1995年10月号

セリーナの娘

 日本はもちろん、カリフォルニアもニューヨークも暑かった。飛行機の中は夏の服装では寒い。毛布にくるまっていた。サンパウロは今冬だけれど、夏の服装のままで違和感はなかった。
 アルゼンチンには雨が降っている夜に着いた。二十九年前に初めてアルゼンチンに辿り着いた日と同じように、寒くて震え上がった。あの日と違うのは、アルゼンチンがもう未知の国ということではなくなっていること。オーバーを着たセリーナが迎えてくれて、夏服の上に半コート程の私を気遣ってくれる。 空港から直接セリーナの個展会場へ。多くの人達がグラスを片手にパーティ酣。顔見知りが多い。
 日本に住んでしまうと、とてもめんどうに感じられることは、パーティの全員にあいさつのキスをして回らなければならないこと。 親しみの深い人となら、とても良いあいさつだと思うけれど、三十人も四十人も、もっとかな、全部の人達に「なんとかかんとか」を言いながら頬にキスをして回るのは、心構えが要ってしまう。
 遠くの方から大勢一緒にまとめて「ペコン」と頭をさげれば済む日本式のは楽だ。
 セリーナは自分で車を運転して、ハイウェイでも石畳道でもカンポの泥んこ道でも、どこへでも出かけていた。「運転は人にまかせたら」とは言っていたのだけれど、そんなこと聞き入れるような性格の人でない。アルゼンチンの食事は昼も夜も必ずアペリティフに始まってワインを沢山飲む。「飲酒運転はいけない」という発想はないから、酔っぱらい運転は当り前。
 去年、セリーナはとうとう昼食後のほろ酔いで、自ら他人の車へ突っ込んでゆき、打撲内出血で全身まっ黒くなってしまい、親族知人全員が「もうだめ」とあきらめた。
ところがよみがえった。そして、リハビリに絵を描くことを思いたち、小さな作品から始まって、壁いっぱいになるほど大きな絵まで描くに至った。
セリーナは、少女の頃から絵を描くのが好きで、ヌードモデルを描いたり、風景画を描いたりしていたそうだ。
私が出逢った頃は彼女の忙しい盛りの時だったから、私が自分用のアトリエを作ったり、モデルに来てもらったりしているのをそわそわと見守ってくれていただけだった。
セリーナの個展は、少女の頃の絵もあり、マチスやピカソと交流の頃の絵。セリーナのコルドバの別荘で、私と私の子供達と一緒に過ごした夏の日の絵。その時の絵には当時二、三歳ほどだった玉由や由野がお手伝いした筆跡がそのまま残してあり、本当に懐かしい。
事故後の最近の作品は、アルゼンチンの大カンポの上に広がる大きな空。どこまでも続く空が入りきれるように感じる大きな絵。椰子の景色の絵もあって、「写生に出かけたの?」と尋ねると、「昔、行ったのを思い出して、写真をみて描いたのよ」と、アルゼンチン八十年の実績がにじんでいる。
若い時の作品より、事故後の作品がすばらしくなった。範囲を増した色は微妙であり、力強くも優しくもあり、何よりもアルゼンチンの風が感じられる。
 セリーナがちょうど今の私の年齢の時に私達は出逢ったから、これから先私はセリーナを見習って生きればいい。アルゼンチン風を日本でするわけにはゆかないから、彼女の心情や勇気をもらおう。しばしセリーナの娘となって、ほんのりとしていた。

 
 

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