アルゼンチンつれづれ(225) 1997年08月号

「菊地四郎」

 二十五年程前のこと、まだ私がアルゼンチンに住んでいた時、時事通信のアルゼンチン支局より通信機器故障の連絡を受け、ウチの社員が直しに出向いた…というきっかけがあり、その当時の支局長菊地四郎氏と知り合いになった。
 人間同士なのに、なかなか友達となる人とは出遇えないものだけれど、菊地さんは『何か!』を思い込んで、はるばるアルゼンチンヘ渡り、孤軍奮闘している日本の若者を、三人、五人、十人…と集め、皆を仲間にして下さった。そして、アルゼンチンで生涯の友達はできていった。
 アルゼンチンまで出掛けて行ってしまうくらいの人達だから、この時の友人達はじっとしてはいない。世界のあちこちに散っていて、なかなか時を同じにする機会がないのだけれど、私が東京でタイムカードに制限されない暮らしを始めてからは『いざ! 菊地さん』という時は、すぐ参じる。
 菊地さんは、斎藤茂吉の縁にあって、短歌を詠んでおられたけれど、中国従軍記者時代、日本語の書いてある物を一切没収され、命掛けで日本へ帰られてからは俳句を作っておられる。
 もうずっと、斎藤茂吉の短歌を読むにつけ、最上川や蔵王、茂吉記念館…へ行ってみたいと思い続けていたところ、菊地さんの郷里山形へ「さくらんぼ吟行会かたがた、茂吉記念館や山寺へも行く」という旅に、私はたちまち便乗、俳句人四十人の中へ短歌人一人の場ちがいにも加わってしまった。
 長い間待っていた旅は、今年はやくやってきた台風と一緒になってしまったから、あの方向に蔵王が見えるはず…。さくらんぼ狩は、さくらんぼと一緒に雨の雫も食べてしまい…。東京より遅く咲く栗の花も渋柿の花も、ひたすら雨にうたれていた。ゆく道を土砂崩れがふさいだり…。そして驚きの圧巻は、土色に増水して流れる最上川を見たこと。今までの私の知る限りの短歌からも絵からも想像は出来ない激しい川が流れていた。茂吉記念館は台風には関係なく、全てのことが実物となって、茂吉の短歌がいかに大きな物を伝えているか、ということを確認すると共に、やっと来られた安心は大きかった。
 私の父も母も、生涯をかけて短歌に携わってきた。したがって私は自然に短歌を作るようになったけれど、五七五までを共有する俳句は、どのような形で吟行をし、句会をおこなっているのだろうか。非常に興味があった。とはいえ、ちょっと離れて感じさせていただくつもりでいたのに、あまりに雨が激しく降っていたから…。五七五七七の七七の部分だけを取り除いたような文字を書いて、句会の席に割り込んでしまった。
 同じ旅のスケジュールの中にあって、したがって同じ風物を見、味わい…。そして五七五だけの短い言葉の中に他人と異なる自分自身の心を込める。参加者が平等に選者の立場にもなり、それでいて全体の流れは主幹の範囲にまとまってゆく。無駄なく、正しく、情熱的におこなわれた句会に、短歌の会にも参考になる幾つかを見つけだしたりしていた。 上山温泉に一夜寝ている間に、台風はどこへやら。雨が降っていない山形にいることと、四十人の知り合いが出来たうれしさに、山寺の山寺山に勢いよくかけ登った。
 山寺は、思っていたとおりの山寺で、本当に山寺らしかった。
 東京に戻って、膨ら脛の筋肉痛が、山形でのあのことこのこと思い起こさせる。

 
 

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