アルゼンチンつれづれ(226) 1997年09月号

裸婦

 学生時代、授業で「裸婦」の油絵を描いたのが初めてだった。モデルは垢抜けなく、うらぶれた物悲しいような経験だった。
 世の東西古今、芸術、美術といって、ひたすらに描き続けられてきた「裸婦」という存在が“みじめ”ではあり得ない、と思ったから、その頃全盛を極めていた「日劇ミュージュクホール」へ「裸婦」を見にいった。姿、かたち、肌の色、照明や音楽や笑顔があったからかもしれないけれど、その美しさに仰天した。この輝きは芸術だと思った。テキスタイル・デザインが専門ではあったけれど、美術の辺りをさまよいたい者として、どうしても「裸婦」を描かなければならない、と心にインプットした。「裸婦」を描けるという環境は、そうそうあるものではないから、それからの月日もむなしく過ぎていったのだけれど。
 アルゼンチンで始めた会社の基礎が出来、子供達が幼稚園に通うようになった頃、アルゼンチンの先生クリスチィナのアトリエに通うようになった。そこで初めて日本人ではない人間の姿に立ち向かった。厚みのある身体は、等身大よりもっと大きく描いてしまい、背伸びをして頭を描き、しゃがみ込んで足を描いた。モデルをしてくれていたアマリアとはすぐ友達になり、彼女のモデル先のアルゼンチン一の彫刻家の所へも連れられてゆき、「人に教えるのは嫌い」というマエストロのアトリエで、粘土をナイフでスパッ、スパッと切り落とすような立体感のある彫刻を教わったりした。
 この頃、自宅近くに、織物や染物や…。思いたったことが何でも出来るように自分のアトリエを作り、アマリアが来てくれて賛沢な「裸婦」三味をしていたが、子供達がすぐに大きくなり、スケートや体操や語学を強いる生活が始まって、とても私自身のことなどにかかわっていられない生活になってしまい、絵描き修業はうやむや。
 アルゼンチン生まれの子供達の日本留学といって日本で暮らしていた時、「裸婦」がまだ描けないという思いがよみがえり、子供達が学校へ行っている間を、自宅にモデルに来てもらい、友人達も集まってきて、絵を描いたり、私の作る各国料理で酒盛りをするサロンが出来た。このことはずっと続くはずだったのに、ほんの一週間前までモデルをしてくれていたのに、若いのに、きれいなのに、描いていて気が付かなかったのに、仲良しになっていたモデルは「何とか癌」で、たちまち死んでしまった。そのショックは大きく、次のモデルを頼んでという気持になれないでいた。
 そして、今度は子供達のアメリカ留学。車で移動しなければ何も出来ないカルフォルニアの生活を始め、まだ車の免許を取る年齢になかった子供達を連れ回る忙しさに明け暮れ、やっと子供達が自分で運転して出掛けられるようになると、アトリエを探し、それは隣町にあったからフリーウェイをぶっ飛ばして描きに行くようになった。アメリカのモデルは若いとかきれいとかではなく、その年齢なり人種なりの人間性をあっけらかんとモデルしてくれた。初めて、普通の太った人、年寄り、男の人…。さまざまな人間に出遇えた。 今、東京で、死ぬまで続けられる、という居心地の良いアトリエに出遇えた。三十何年か前と今のモデルとの差の大きさに「日本は変った」と思う。若くて足が長く、まことに美しく、まぶしいようなモデルがポーズしてくれている。描きたいという思いにあふれる。いっかきっと絵巻物に仕立てあげよう。

 
 

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