アルゼンチンつれづれ(232) 1998年03月号

玉由のお正月

 「そのうちには行くから!」「白身の薄造りは日本でなくては食べられないもの」「人肌のお酒がいいな」…とかなんとか、いつもカリフォルニア住いの玉由と電話で話しているのに、彼女はもう三年間も日本に来ていないことに気付いた。
 「ニューヨークの大晦日のリンゴが落っこちるのを見にゆくのだ」とか、「ラスベガスでルーレットをする」とか彼女なりの正月休みの計画は、日本へ帰るということに変更。何を説明してみても、成田から王子の家へ辿り着ける玉由ではないし、私は成田までも迎えに行きたくはない。成田からのリムジンバスに乗って我家近くのホテルのロビーまで来る、そこまでは迎えに行ってあげよう。
 めでたく私の新しい家の和室の住人となった玉由。カリフォルニアでは年中Tシャツ程度で平気であり、夜とか冬は上にジャケットなりを羽織る程度で過せる。Tシャツ以上の重ね着をすることを知らない彼女は、日本の家屋で「寒い寒い」。家中のエアコンをフル回転させて、とうとうTシャツで過していた。外出は、その上から羽毛のジャケットを着るだけという対処の仕方だった。
 アルゼンチンに住んでいた時は、子供達を日本人に育てなくては、と律儀に思っていたから、日本の物がほとんど何も調達出来ないにもかかわらず、出来る限りを尽して日本の行事を再現させていた。お正月のお雑煮も一日が父親の育ったもの、二日目が私が育った雑煮、三日目は外国に住むアレンジ…とか。カリフォルニアに住んでいた時は、日本と同じ程の日本の品物を売っているマーケットがあったからお正月の仕度に何不足はなく、気侯だけは違っていたけれど立派に出来た。
 行事をちゃんとこなさないと気に入らない玉由だから、さぞ日本で日本のお正月をしたがるのだろうと思っていたら、「あ、それ食べないから」「無駄になるから」「買わなくていいよ」…何とか言って暮の買物は何もさせてはくれない。「誰でも買うことが出来て…昔、何もないところからお母さんが作り出していたのを思い出すと、こんなに立派に沢山売っているの買ってもおもしろくないもの」。 とうとうお正月用品は何も揃えず仕舞いだった。
 せっかく日本に来たんだから日本らしく過させたく、「それでは京都へ行こう」。
 由野は、何寺とか和菓子、湯豆腐、あぶらとり紙…目的があってすぐ京都へ出掛けてゆくけれど玉由は小さかった時スケートの試合で一度だけ、試合のあき時間に連れだして見せた金閣寺が唯一の京都。
 「あの時以上の素晴しい思いをすることはないと思うから、もう金閣寺へは行かない」それで銀閣寺へ行った。あたりのたたずまいも銀の様子も「こんなに良いものが日本にはあるんだね」。帰りの参道では、焼きながら売っている“せんべい”にまた夢中になっていた。
清水寺では、舞台に立つと、今度は「下から見あげてみなくては」と、階段を沢山おりて、その大いなる柱に感動をしていた。
二年坂を下り、産寧坂を下り、高台寺の玉由の祖の貫名海屋のお墓に詣で、「このことは、こうなっていたのか」と納得出来た。
京都の人々がお正月にはどんな仕度をするのか、錦の市場の大変な人混みにまぎれ、「今、読んでいる」という祇園、先斗町、高瀬川辺りを隈無く歩いた。
鴨川べりの川床。炬燵で温々。京野菜料理、豆腐、薄造り、京の漬物…。二人で人肌のお酒をいっぱいいただいた。

 
 

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