アルゼンチンつれづれ(233) 1998年04月号

王子稲荷神社

 「今日はずっと家に籠ってしまった」と気付くと、我家のすぐ裏にある王子稲荷神社へ出掛けてゆく。昔は杉の大木におおわれた山であり、狐が住んでいたという。現在でも昼なお薄暗く、人影はほとんどない。かつて狐が住んでいた“穴”や、かつて水が流れ落ちていた“稲荷の滝”などを見ているのが恐くなってしまう程。
その、私の生活の一部になってきた王子稲荷神社は千年の昔から現在の所にあり、稲荷大明神といい、衣食住の神様で、二月の初午の日には祭礼がとりおこなわれるという。
何事が始まるのか、心楽しみにして当日、“私の家のお祭りだから”と友人達に電話をしてさそったり。朝はやくから露店が出来て、いつもの私の散歩道は華やいだ人々でうまった。王子辺りの人達ばかりではなく、電車に乗って来る人も多いらしい。今では、“商売繁昌”と“火防せ”の神徳があるということで、江戸期の火消しの印祥纏姿が奴凧になり、境内で凧市が開かれる。とてつもなく大きな奴凧から豆凧に至るまで。
常の日々にはしっかりと締って取り着くしまのない宝物館がこの日には開けられて、「どうしてこんなに恐ろしい絵があるのだろう」と思っていた柴田是真の「茨木」の扁額を近付いて見ることが出来る。
鬼女が自分の切り落とされた片腕を取り返す語りがあることを知る。勢の良い線に見入る。もう一点、幕布の御殿絵師の谷文晃の「竜」の墨絵がみごと。私の裸婦絵にこの技法をまねしようと思う。よくよく見つめる。その間、念を入れた“きつね囃子”が聞こえていた。
今に至っても遠方よりの参拝者が多いのだけれど、昔日のこのあたりの街道は“王子いなりみち”との道標がたつ程であったと。
 正岡子規の好んだ日暮里の羽二重だんごの店の角に“王子街道”との道標が残っている。四角い道標の王子街道と直角に交わるのが“芋坂みち”であり、ここは道潅山。削られて宅地となり、今は山の姿をとどめないけれど、山の狭が自然の道なりと幾つも残って、ユニークな名前が付き、幸田露伴、森鴎外、夏目漱石…の作品の舞台となった。
 正岡子規の行動や生活や…そんなことを知りつつ、彼の言葉が芸術となっていった様を感じたい。王子のよしみでまず、子規の好物であった、百七十年も続いて変わらない味、羽二重だんごを。生じょうゆの方はお酒でいただき、あんの方はデザートにした。さっぱりと歯応えあって、沢山子規を忍んだ。芋坂は、JRの線路を十二本も通す陸橋になって谷中の墓地に至り、あそこにもここにも有名な名前に出逢う。
 お墓を抜けて朝倉彫塑館へ。今、裸婦を描いてきたばかりの目で朝倉文夫の作品を見ると、その正確さに安心出来、ふくみ持つ沢山のことが伝わってくる。人間の骨格の標本もあり、“人の動きはどの骨がどうなって”自分の身体に持ちながら未知であった部分を知ることが出来た。
関東大震災や戦災の被害が少なかったこの辺り“谷中”は、昔の家並が残っており、“夕やけだんだん”なんていうかわいい名前の段々を下ると、豆腐や魚やお惣菜や…それは楽しくおいしそうな谷中ぎんざ商店街。まだ先を歩くつもりでも何やら買い込みたくなってしまう。
 蛍坂、さんさき坂、ヘビ道…大名時計博物館に寄り、S字坂、根津神社、根津教会…。そして歩き疲れて、明治時代に建てられた木造三階家の黒くみがきあげられた急な階段を登る。畳に座って、熱々の魚貝野菜の串揚げをいただいたのは“はん亭”。しっくりと心楽い散策だった。

 
 

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