アルゼンチンつれづれ(254) 2000年新年号
捻挫した
健康であることに、特別気を使うことなく当然のことと心得てきた。今までは。
病院とは、見舞にゆくところ。人間ドック、検査、検診…縁をつくらないできた。
じっと自分の身体に聞いてみる。今のところ悪い反応はない。
野菜と魚貝類を中心とした単純なものを食べ、消毒と称して酒類はかかさない。そして快適に過してこられた。
ついでに、美容院へも行かない。伸びてくる髪は自分で切る。切り過ぎたり、後は見ない、切れない。それでもいい。
自分の出来る範囲のことは自分一人でしようとしすぎる。訳のわからなかった外国で奮闘してきた後遺症だと思う。
特別な用事があって、常の道ではない所を歩いていた。夕ぐれて暗かった。気付くと転んでいた。見上げる位置に、歩いてきた道があった。ずいぶん高くから落ちたらしい。
ひと呼吸して立ちあがると、痛いけれど歩ける。そのまま一時間ほどを、電車を乗り継ぎ、その都度の階段を登り降りもこなし、家へ帰りついた。打ったらしい辺りを湿布して寝てみたものの、どんな向きに足を置いてみても痛くて、ねむれなくなった。
朝、ベッドから立ちあがろうとして、右足が立てる状態にないことを知った。
父が晩年、椅子の背もたれを伝って歩いていたのを思い出し、手近な椅子やテーブルを引き寄せて、両腕の力で移動を試みた。
寝室、居間は二階にあり、風呂、洗面、玄関は階下にある。階段を、どう降りようか、しばらく考えていたけれど、どうにもならない。一段づつ腰をおろして両腕の力でもって降りることに成功。登りも、同じ方法で逆登ることになる。誰も見てないから気楽にできるけれど、一人住む生活を、どうこなしたものかと心細くなる。
玄関のブザーが鳴る。「しばらく時間が掛かるけれど、帰ってしまわないで下さい」とインターホンに伝え、また大騒動の階段下り。
ニューヨークの子供達から、定期便の電話が掛かってきた。歩けない、という私の初体験に気が弱くなっていて、「捻挫しちゃって歩けないんだ」と、つい白状してしまった。 「サンクスギビングの休みが五日間あるから行ってあげる」。玉由と由野は、その日のうちにニューヨークを発って、次の日には東京の私の所にいた。
フィギュアスケートや体操をしていた打身、捻挫の大経験者達は、私の象のように大きくなってしまっている足を見るや、「バケツ、氷」と、ミネラルウォーターで作っておいた氷をガラガラとバケツにあけ、水を注いで「この中に足を入れていなさい!」「そんな冷めたいこと出来ないよ」「感覚がなくなるくらいまで入れていてごらん」。子供達に従うしかない。「日本ではすぐ薬に頼るけれど氷が一番きくんだよ」
その甲斐あって、急速に腫れが引いてゆく。
ある程度歩けるところまで見とどけてくれて、子供達はニューヨークヘ帰って行った。子供達が買い置いてくれた物と、冷凍庫が空っぽになって、我家の前の坂道が足を引きながら歩くのにとても大変なことがわかり、人混みにでて、人と同じぺースで歩けなくて他人迷惑になっている自分がなさけなかったし、見たかった展覧会も浅草の酉の市も終ってしまった。
止むを得ず不自由をしている人へ、心が及ぶようになれたこと、身体も心もひとつ階段が登れた。
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